いまここに及ぶ呼びかけ

チア・シード

マタイ9:35-38   


イエスは、町や村を残らず回ったといいます。教えや福音を伝えたのは尤もですが、ありとあらゆる病気や患いを癒やした、とマタイは記しています。回ったこと、癒やしたこと、それはよいのですが、「残らず」回り、「ありとあらゆる」病気や患いを癒やした、というところに、注目したいと思います。
 
もちろん、それは一種のレトリックであって、文字通りallの意味であると堅苦しく解釈する必要はないでしょう。しかし、たとえありがちな慣用句であったとしても、その表現は無責任に置かれているとは思いたくありません。つまり、イエスはいまもなおここに回ってきているのであり、私の病も患いも癒やしたと考えて然るべきではないでしょうか。
 
その場合、私は打ちひしがれていて、飼い主のいない羊のようであることになるでしょうか。それももちろんよいのですが、それはイエスにつながれていない人々として見ると、やはり私は働き手の側にいたいものです。そのときのこの「収穫」は、ついて行くべき羊飼いとしてのイエスに導かれていない人々だということになります。
 
但し、イエスを知る誰もが、同様に働き手でありうるのかどうかは分かりません。また、私がその役割に相応しいのであるかどうかも分かりません。私が出しゃばって自分中心に思い込んでいてはならないのです。他方、自分がなすべきであるのに見過ごしているというようなことも、避けなければならないでしょう。
 
働き手を送ってくださいと主に祈れ。そう求められる中で、自分がそれだと気づかないくらいぼんくらであることも、望ましくありません。しかし、これだけの記述の中でも、主に呼ばれていることを自覚することは、ありうるはずです。ここで主の声が、自分への呼びかけであるとして受け止められたら幸いです。私がその働き手だと呼ばれました、と。


Takapan
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