異邦人の信仰と癒やし
チア・シード
マタイ8:5-17
イエスは癒やしの業を続けます。「規定の病」(8:2)の患者をも癒やします。そこに、主が望むならば清くすることができる、という信仰があったからではないかと思われます。そして今、イエスはカファルナウムに入りました。そこへ百人隊長が現れます。「近寄り、懇願し」たというのは、何気ないようですが、ただならぬ事態ではなかったでしょうか。
百人隊長といえばローマ兵です。支配者側の一定の地位のある人間です。それが、被支配者側の宗教者の前へ「近寄り、懇願し」たのです。子どもが麻痺して倒れている。治してくれと言わない先に、イエスは「私が行って癒やしてあげよう」と言っています。何をしてほしいのか、とも尋ねません。百人隊長はそれに甘えてよかったはずなのです。
でも言いました。自分はイエスのような方を家に迎えられるような人間ではない、と。「ただ、お言葉をください」との声が響いてきます。イエスの言葉があればいい。「そうすれば、私の子は癒やされます」という信仰を、イエスはすでに見抜いていたのでしょうか。しかも、隊長はそう申す理由も続けて語りました。自分は「権威」の下にある、と。
部下に対しては、言葉ひとつで動かすことを知っているというのです。必要以上の野暮な説明を隊長はしません。否、マタイ伝がそれを書きませんでした。イエスは「これほどの信仰は見たことがない」と周囲に宣べました。ここに模範的信仰があると示したのです。「行きなさい」と、隊長の部下への言葉を用いて、イエスの権威を明らかにしました。
もちろんその子は癒やされました。その日に続いて、ペトロのしゅうとめの熱を下げ、夕方には悪霊に取り憑かれた者や病人を癒やしました。果たしてマタイが引いたように、イエスが「弱さを負い/病を担った」のかどうかはまだはっきりさせていませんが、ただ、異邦人の信仰と癒やしがそこにあったことだけは、間違いありません。