豚に真珠だけではない
チア・シード
マタイ7:1-6
イエスのユニークな表現は、聞く者の心に強く残ったことでしょう。メモされていたとは思いますが、心にもしっかり刻まれていたに違いありません。量る秤で量られる。これも洒落ています。目に梁があるなど、他の誰も考えつかないものでしょう。目におが屑があるなどとも、そもそも想定するものではないと思われます。ユーモアなのかもしれません。
豚に真珠。ついに日本語でも諺として市民権を得、それが聖書からきてるんですよ、としたり顔で説明するのがクリスチャンのあるあるとなりました。どれも面白い言葉です。でも待てよ、それでよいのでしょうか。これはことば遊びではないのです。私のことなのです。私が挙げられているのです。つまりは突きつけられた、辛辣な言葉であるのです。
冒頭には、分かりやすく「人を裁くな」と掲げられています。人を裁くそのことが、正に自分に及んでくるというのです。人に対して非難することを、まず自分に対して適用してみるべし。そのように受け取ることもできるでしょう。しかし、そう弁えてさえおけば人を裁いてよいのか。あるいはまた、人の悪を見過ごすように勧められているのか。
どちらも奇妙です。然りは然り、否は否、というからには、否むべき事柄を認識しておかなくてはならないはずです。兄弟の目からおが屑を取り除くことができると言われています。まず自分の目から梁を除く、つまり自分についての点検を先行させることにより、他人のことへの指摘も可能になるのだということは、確かに言われているように見えます。
豚の件ばかりが諺として際立っていますが、よく見ると犬のことも言われています。犬は表面上忘れられていますが、犬もまた豚と共に、物の価値が分からないとされています。それは人のこと、私のことかもしれません。人は裁く基準について、実は何も知らない、分かっていない、と突きつけているのかもしれません。
これを語ったのはイエスでした。聖なるもの、真珠、それはイエスのことだと思うのです。人は犬や豚のように、イエスという方がどれほど貴い方であるかが分からず、踏みつけにしてしまいました。なぶり殺しにしたのです。そこから救ったこのイエスを、そして聖書を、いまなお人は踏みつけているようなことはないでしょうか。