隠れた所におられる神

チア・シード

マタイ6:5-8   


山上の説教がすでに始まっています。マタイ伝編集者の理解が現れているように見えます。幸いの価値観の転換が図られた後、凡そ実行不可能なことが要求され続けます。そして6章ではまず、人に見られるための施しや断食が戒められ、いずれも「隠れたことを見ておられる父」(6:4,18)のことが指摘されています。それに挟まれたのが今日の箇所です。
 
いま「祈るとき」の教え、そして主の祈りと呼ばれるところにつながる箇所を私たちは読もうとしています。注目すべきは、「そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」とここでも言われていることです。これは、6:4,18にも見られるフレーズでした。人目を意識して評価されることを狙ってはいけない、とした上で。
 
しかもここでは、「隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい」の直後にその報いが出てきます。「隠れた所」の父が、ずばりここにいて、全部お見通しということになっています。この祈りの教えは、「隠れた所におられる父」の中心にあったと見てよいでしょう。これを押さえておかねばなりません。おおっぴらに祈ってよいことではないのです。
 
これに続いて「だから、こう祈りなさい」(6:9)と主の祈りが始まります。主の祈りとは、そういう祈りだったのです。隠れた祈りなのです。だから主の祈りが、人に見せる祈りや断食を戒めるものの中で、それらに挟まれて置かれているのであり、「隠れたことを見ておられる父」に、同じように自然に、言及されていたに違いないのです。
 
異邦人がくどくどと述べているのは、そのような祈りではありません。「願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」である父なる神は、隠れた私たちの心を知っています。但し、だから私たちは何もしなくてもいいのだ、ということにはなりません。私たちそれぞれが、神が隠れているということへの信頼を明確にしなくてはなりません。
 
人を頼り求めず、人を赦すことに徹しているか、が問われています。「奥の部屋」、別訳で「倉庫」と訳されています。物を納めています。必要な物を取り出します。私たちの人間性、人間の本質そのものがそこにある、というところ。正に「隠れた所」です。神は人が飾ったうわべに在すのではありません。私たちの本質とのみ関わるお方なのです。


Takapan
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