その人に直面して

チア・シード

マタイ18:15-17   


天で結ぶとか、集まるところにイエスもいるとか、この先に重要な教義に関わる言葉が控えているのですが、それを視野に入れずに、この部分だけを味わう試みに挑みます。きょうだいがあなたに大して罪を犯したときに、いきなり誰かに訴えるのではなくて、二人だけのところでとがめよ、というのです。ふむふむ、といきたいところですが。
 
私たちはここで「きょうだいが罪を犯したら」といつの間にか受け止めがちではないかと反省します。「あなたに対して」という言葉を読み飛ばしてはいなかったか、と問われるような気がするのです。つまり、自分とは関係のない罪の行為に対してその人を裁くようなことをこれまでしていなかったかどうか、省みる必要があると考えるのです。
 
この句を根拠として、自分と無関係な人の行いに正義漢ぶって忠告をする、ということもありがちな気がします。それにしても、自分に対しての罪というのはどういうことなのでしょう。かなり迷惑なことをされた時でしょうか。何かしら被害者と呼びうるようなことについてなのでしょうか。パウロの想定についてはこれ以上は分かりません。
 
とにかく罪なることをされたとします。すぐさま他人に介入してもらうよりは、まずは内密に、一対一で質してはどうか、という提案がここにありますが、まことに現実的でしょう。できればそれで済ませられたらよいのです。また、そもそも一対一で話をするということには勇気が要るものです。何かされるのではないか、との不信感を超えたのです。
 
そうなると、すでに相手への信頼を前提としていることになります。信頼感がなければとてもできることではないと思うのです。教会内でのそれなりの関係が保たれている上での営みであり、それはそれでまずはすばらしいことではないでしょうか。但し、それで相手がすんなり聞き入れるかどうかはまだ分かりません。
 
どうしても分かってくれなければ、これは一対一では解決しません。もう少し公的な問題でもあるとして、複数の人の前に持ち出して関わってもらうことも必要になります。証人が求められるのです。さらにそれも適わなければ、教会のとしての問題として提起するに値する問題であるというふうに理解しようとするのも、現実的な対応となります。
 
このことはね別のシチュエーションにも重ねらることができます。イエスは、私たちに一対一で語りかけてくるからです。私が罪を犯すというのは、人に対してでもありますが、本来的には神に対して、イエスに対して犯すのではないでしょうか。神ならぬものを神とするからです。イエスがまず私に直面します。私はこれを聞き入れるでしょうか。


Takapan
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