悪がいま存在するのは何故か
チア・シード
マタイ13:24-30
種を蒔く人そのものの正体は明らかにされなかったものの、たとえの意味は、イエス自身が説明をしました。こうした例がもう一つあります。それがこの毒麦のたとえと呼ばれるものです。共通しているのは、この二つのどちらもが、「たとえ」を用いて話すのは何のためであるのかをイエスが語る場面を挟んで、解説がなされている点です。
今は自由に毒麦について想像を巡らせてみましょう。先の「種」は「御国の言葉」(13:19)を指していました。今度は「天の国」です。「言葉」とは表現せずに、「天の国」が何に「似ている」かを示そうとする話が、ここから幾つか続きます。もちろんマタイ伝に於ける「天」は「神」の言い換えですから、これは「神の国」のたとえのことです。
どうしても「毒麦」が代表してしまう話ですが、イエスが強調しているのは「良い種を畑に蒔いた人」の方だと思います。そう、今度もまた、種を蒔く人がメインなのです。しかも、前回はっきりとは述べていなかった「似ている」というものを正面から伝えています。この世の障害や進行を阻むもの、というようなぼんやりとした言い方ではありません。
ここではずばり「敵」だと称しています。敵がいるのです。意志を以て害を及ぼそうと企む者がいます。良い麦の中に、敵は毒麦を蒔いて行ったといいます。実のところ私たちのイメージする「毒麦」という訳語でよいのかどうか、分からないとも言われます。植物的に同定が難しいのだそうです。しかし引っこ抜かれなければならない存在ではあります。
僕たちの「畑には良い種をお蒔きになった」という言葉からすると、蒔いたのは主人のように聞こえます。主人が蒔くのなら、種を蒔くのは神かイエスかでしょうか。もちろん、主人が毒麦を蒔いたのではありません。「敵の仕業」なのです。僕たちは早速それを抜きましょうかと提言しますが、主人はそんなに慌てることはない、と留めます。
それだと、良い種の麦まで抜いてしまうかもしれないからです。「刈り入れ」の時まで待ちなさい。この「刈り入れ」は、イエスの説明を俟つまでもなく、終わりの日、審きの日です。イエスはこうして敵のすることを放置します。それは、今の世にはびこる悪を神が何故すぐに駆除しないかを説明しています。神よどうして、の問いに答えているようです。