種を蒔く人が誰であるにしても
チア・シード
マタイ13:1-9
イエスが外に出て、「海」と呼ばれた湖のほとりに座っていた、それだけで「大勢の群衆」が集まってきています。それは「その日」のことだと言います。すでに群衆はこれ以前からイエスを取り巻いていました。イエスはその群衆に向けて教えを垂れていたのです。この辺り、イエスが話している対象がころころ変わっているように見えます。
もしかするとその背後に、群衆と呼ぶべき人々が、変わらずずっといたのかもしれません。イエスの周りには、なんらかの形で群衆が絶えずひしめき合っていたのでしょうか。そしてここから、「たとえ」を用いてイエスが語る場面が続きます。あるいは、あの山上の説教のように、マタイ伝はここにいろいろな「たとえ」集めて載せたのかもしれません。
そうだとすると、一つひとつのシチュエーションというものを考慮することには、余り意味がないことになります。ただ、「イエスは舟に乗って腰を下ろされた」のに対して、「群衆は皆岸辺に立っていた」といいます。場面を思い浮かべることに意味があるのかどうか分かりませんが、この距離感についてはイメージしてみようかと思います。
つまり、辺り一面の水に、イエスの声は吸い込まれそうに思えるのですが、群衆にはどのように聞こえていたのでしょうか。マタイ伝によると、「イエスはたとえを用いて多くのことを語られた」といいますから、やはり山上の説教ばりに「たとえ」をただ並べていた記録なのかもしれません。ところでこの「種を蒔く人」とは誰なのか、気になります。
18節以降の、イエス自身による解説があることは、珍しいケースなのですが、そこでも実のところこの人の正体は明らかにされていません。ごく当たり前のように蒔く人がいて、むしろ問題は蒔かれた種の方にあり、それは「人」であることだけは分かります。ではこの種を蒔く人も「人」なのでしょうか。それは説き明かされていないのです。
イエスのことなのでしょうか。それとも、弟子たちがこれから宣教してゆくことを示しているのでしょうか。恐らく、自由に捉えてよいのではないか、と思うのですが、逆に分かりきっているから説明しないのだ、という可能性もあります。「良い土地に落ち」た種は実を結びました。私たちが実を結んでいるか、ここは良い土地であるか、問われています。