平和を願うために

チア・シード

マタイ10:5-15   


イエスの十二人の弟子を派遣するにあたり、注意を促すのが、ここでの目的です。それは言うまでもないことなのですが、いまの私たちがキリストの弟子としてどうあるべきかを定めた規定である、と見たいと思います。その意図で記されているのだ、と。ただ、この時にはイスラエルの家の失われた家へ行くのが至上目的であったはずです。
 
福音書の時代、イスラエルへの伝道が緊急であったのかもしれません。異邦人よりも、サマリア人よりも、イスラエルの散り散りになった者たちが、神の国の希望の中へ招き入れられることが求められていたに違いありません。すでにユダヤの地には、そうしたことが許されなくなっていました。当時、イスラエルはイスラエルでなくなっていたからです。
 
では、いまの私たちはこれをどう受け止めるべきでしょうか。どこへ派遣されるというのでしょうか。マタイの意図は、また違っていたことでしょう。しかし受け止めたい。神の国は近づいたのです。これは事実です。イエスがすでに病人を癒やしています。死者が生き返っています。悪霊が追い出されています。それも、タダで、誰にでも。
 
旅立つまで、助ける人々に委ねてもよいでしょう。そこから次々と相応しいところへと遣わされてゆくのです。平和があるように。私たちのかける言葉はそうしたものでありたい。呪いではなく、平和を告げたい。平和を宣言したい。それなのに、人は争いをつくります。悪意からというのもありますが、無邪気にその因をつくることが度々あるのです。
 
それも、自ら気づいていないから、なおさら質が悪いものです。なるべくなら、足の埃を払いたくなどないのですが、我を張るほどの無理をしてはならないというふうに言われているように思えます。自分がその相手を変えよう、と躍起になってはならない、と。言うだけ言ったあとは、神の手のなすままにお任せするという考え方です。
 
ただ平和を願う。それだけです。それでよいのです。平和は自分が作るものではありません。神の子と呼ばれる者のみが、それを作ります。私たちが、喪われた羊の許へ遣わされていくのは、平和を願うためなのです。願った平和は、相手に届かなければ、告げた自分の側に実現するでしょう。神の言葉は、地に落ちることなく、実現するでしょう。


Takapan
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