私たちがもたらす平和
チア・シード
マタイ10:34-42
派遣する弟子たちへのアドバイスは、後の世代の私たちすべてへのアドバイスとなります。平和を必ずしももたらすためではなく、しかしそのような私たちを受け容れる者、即ち私たちと平和を共に築く者については、十分な祝福があるのだ、ということをイエスは告げました。できるなら、私たちのすべての営みが平和に繋がるものでありたいと願います。
私たちはキリストの名を与えられています。キリストの名が平和をすべての人にもたらすとよいのですが、そうとは限りません。キリストを善として常に受け取ることができないのが世の姿だ、と解することもできるでしょう。キリストをとるか、家族をとるか、そのレベルまで迫るのは極論であるかもしれませんが、そこまで問わねばならないのでしょう。
そういうところに、己が十字架というものがあります。この体をすら優先して選択することができないような、厳しい光がそこに待ち受けているのです。私たちの本当の命とは何なのでしょう。本当の平和とは何のことなのでしょう。それとも、そのように「本当の」何かを探すこと自体が、誤っているとでもいうのでしょうか。
家族すら敵になるとここにはあります。芥川龍之介の「杜子春」は、中国の原典とは異なり、情愛に満ちた結末になっており、日本人は過酷な運命を避ける傾向にあるようにも見受けられます。そこには、神を第一にしろという迫りを否むものがあるかもしれません。しかし、聖書を文字通り読めば、神を第一にしなければならないと読めるのです。
そこを突いて、「本当の」信仰だと迫るのがカルト宗教の道具にさえなっています。悔しく思います。そうして家族を棄てたおまえにとり、本当の家族なのだ、と組織が人々を操るのです。憤りを覚えます。信仰あらばキリストの弟子であれ、と組織の命ずるままの存在にしてしまうのです。目的は金であり、権力であるのでしょうか。
冷たい水一杯でも飲ませる、と言いますが、当時冷たい水を提供することは、手の込んだ準備を要するものであり、それが貴重な水であったことを思うと、凡そキリストをもてなすことに匹敵するものであると見てよいでしょう。私たちが互いに、ひとをもキリストの如く扱うべきである、ということは、心得ておきたいと思います。