「だけ」と訳すと混乱する

チア・シード

マルコ6:30-44   


「使徒たち」という語に、私たちは敏感になるかもしれません。でもマルコ伝の記者が、私たちのように役職めいた眼差しでその言葉を見ていたようには思えません。「弟子たち」という言葉と、特に使い分けていると見る必要はないような気がするのです。ここでは、十二人を二人ずつ派遣した後のことが書かれています。
 
「悔い改めを宣べ伝え」、「悪霊を追い出し」、「多くの病人を癒やした」報告がありました。これが「使徒たち」の働きでした。イエスはそれをどう評価したでしょうか。ここには直接それが書かれていません。ただ、休暇を与えたことだけが分かります。その場は人の出入りでばたばたしていて、「食事をする暇もなかった」のだそうです。
 
イエスは、休むということについて「あなたがただけで」と言いました。「自分たちだけで寂しい所へ行った」とも記されています。イエスでなく、弟子たちだけが休むのです。「一同」は舟に乗りました。この「一同」は、恰も弟子たちだけのように聞こえます。それとも、イエスも同乗していたのでしょうか。ちょっと見ると、それが分かりません。
 
人々はこの動きを見て、舟の向かうはずの別の岸へ、徒歩で先回りしたといいます。そして「イエスは舟から上が」ったのですから、どうやらイエスもその舟に乗っていたようです。先ほどの「だけ」の日本語が適切でないように思えます。再帰代名詞は原文にはありますが、「だけ」を現す語は見当たりません。「寂しい所」とはある特定の場所です。
 
すると再帰代名詞は、人物の限定というよりも、動作の方を強調して用いられているのではないでしょうか。例のあの場所へ、さあ行くのだ、との指示です。イエスは、追いかけてきた群衆を見て、腹の底から同情のような感情を抱きます。「飼い主のいない羊のような有様」だったからです。ここまで追いかけてくるほど、よき導き手がいないのです。
 
ここから先の出来事は、よく語られて知られています。いま詳しく説明する必要はないと思います。教会の聖餐の意義を伝えていると思われます。私たちはイエス手ずから裂いたパンと、魚を共に食します。パンも魚もイエス自身だとして受け止めることができるとすれば、私たちはイエスとの深い交わりの上で、イエスを飼い主とする羊となったのです。


Takapan
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