悪霊から清めへと展開する
チア・シード
マルコ1:40-42
マルコ伝は「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)から始まり、マタイ伝などと比べて、駆け足でイエスの活動が展開してゆきます。4人の漁師を弟子にすると、カファルナウムですぐに教えを始め、「汚れた霊に取りつかれた男」(1:23)を癒やしました。また、会堂を出ると、シモンのしゅうとめをはじめ多くの人々を癒やしました。
こうした治療は、悪霊に関わるものが多かったのです。ところが今日、「規定の病」の患者が自らイエスのところに来ました。そして跪き、イエスに願いました。「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言っている場面は、どのように思い描いたらよいのでしょう。イエスは「深く憐れんで」いたようです。例の、腸のよじれの語です。
ところがここにある注釈によると、これを「怒って」の語に直している写本があるというのです。同じマルコ伝で「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる」(9:23)と、痙攣の子の父親を叱るように言ったことがありました。慌ててその父親は「信じます」と叫ぶ様子が描かれていました。これがもしも念頭にあったらどうでしょう。
「怒って」の訳もあり得るような気がしてきます。しかしイエスは「手を差し伸べてその人に触れ」ました。この人に教えを垂らすような気配はなく、マルコ伝らしいスピーディさで事態が展開してゆきます。「私は望む。清くなれ」とイエスはただ言いました。「望む」とは、欲すること、意志することを伝えているように聞こえます。
「清い」は、浄化されることも示すことができますが、「癒やす」という場面でも使われ得る語です。ここでもつまり、癒やされよ、と言っているのでしょう。「たちまち規定の病は去り、その人は清くなった」のでした。イエスの「清くなれ」の声によって「清くなった」のですから、信仰者はそれを当たり前のように思うかもしれません。
しかし私たちがその現場にいたとしたら、さらに当事者であったとしたら、そもそも誰かに、あなたは私を清くすることができる、などと言えたでしょうか。しかしイエスの業はそれができるのです。浄化されよ、との力がイエスから及びます。私たちにいまこの力が隠されているかどうかは分かりません――おや、そうなのですか?