逮捕場面のそれぞれ

チア・シード

マルコ14:43-50   


「イエスがまだ話しておられるうちに」、ユダが群衆と共に現れました。イエスが「まだ眠っているのか」と、3人の弟子たちに対して言っていた、そのときです。イエスはまだ、語り終えていなかったのでしょう。すると、マルコが記している「身よ、私を裏切る者が近づいて来た」という言葉は、実は言い終わらないうちに混乱となったのでしょう。
 
「裏切る」というよりも「引き渡す」と訳したほうがよいかもしれない場所です。イエスはまだ、弟子たちに伝えたいことが残っていたかもしれません。大祭司の僕の片方の耳を切り落としたときに、イエスは口を開いています。それは必ずしも、弟子たちに向けて発されたものではありませんでした。群衆などの敵に対しての言葉でした。
 
もう弟子たちは、イエスから直接言葉をかけてもらうことがありませんでした。裁判のときも、十字架の上からも、ありません。マルコにおいては、復活のイエスが弟子たちに現れて語る場面も記されていません。わずかにあるのは、他の福音書を参考に付加された「結び」と呼ばれるいくつかのパターンにおいてだけなのです。
 
イエスが「時が来た」と言ったことを最後に、イエスから弟子たちへのメッセージは途絶えてしまいます。他方、ユダは接吻によって、これがイエスだと群衆に示しました。暗がりでの逮捕をスムーズに行わせるためです。まちがいなくこの男を捕らえよ、とのサインです。「先生」とユダが近づいてきます。その姿はイエスの目にどう映ったでしょうか。
 
群衆は、当局の面々によって差し向けられていたのでしょう。剣や棒が、それぞれの手に握られています。捕まえろ、逃すな。ユダの指図は厳しい。剣があるとなると、流血も辞さないことになります。実際にそうなったのでしょうか。使われたからこそ、大祭司の僕の耳の件があったのでしょう。あるいはそれは、同士討ちだったのでしょうか。
 
イエスは群衆に向かって言います。私は強盗なのか。毎日、神殿の境内にいたではないか。なぜその時に私を捕らえなかったのか。イエスの言葉は、疑問文です。しかし、それは旧約聖書の預言の実現となる意味がこめられていた、そうマルコは解しています。3人の弟子たちは、その場から逃げます。イエスを見棄てたのは、この3人の弟子でした。


Takapan
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