自分の所有の土地
チア・シード
レビ記25:8-12
7×7+1=50 なのか、49年そのものなのか、50年目を含むというのか、説がいろいろあるようですが、今回は計算に拘泥しないことにします。7というサイクルを二重にすることで、神と人とのなす最高の組み合わせが誕生するのです。日本文化は、この週の概念の7という周期を生むことがありませんでした。
角笛を鳴り響かせます。贖いの日のしるしです。解放の日だという50年目の年がそのときであるかどうかは問題にしないとしましたが、ユダヤ教がどう捉えているかは気になります。文化の現在に疎いことが恨めしく思います。しかし規定の通りのヨベルの年が、いま行われているわけではありません。
もっとメンタルな方面に期待すべきでしょう。50年目が住民の解放ということで、贖いをも実現するのだといいます。所有の地に帰ることができるのだ、と。すると、所有の地にいることができなかったことが前提となっていることになります。己れの民族のもとにはいなかったわけです。だからなのか、この年は農作業を一切してはなりません。
仮の土地での仕事は一切ない、ということになります。具体的にどのような生活になるのか、私には想像もつきませんが、このように聖なるものとして人が特別に扱わなくてはならないものが、本当にあるということを教えられます。野にあるものは主策して構わないそうですが、多くの人が野に押し寄せないか、ちょっと心配します。
野という所が、それほどの許容をもっていることの証しであるかもしれません。自分の所有の地に帰ることができる、とえらく強調されていますが、さて、私にはそういう所があるのでしょうか。私は何の所有があるのでしょう。イエスは、神の国に住まいを用意してくださっているという話は、確かあったのだと思いますけれども。