安息という恵み

チア・シード

レビ25:1-7   


安息日を聖とせよ、という命令があります。十戒からきています。「安息日を覚えて、これを聖別しなさい」とはっきり書いてあるので、ごまかしようがありません。出エジプト記と申命記と2箇所に十戒はありますが、その理由づけにかなり温度差があります。エジプトでの労苦に触れていないため、レビ記の姿勢は申命記とは違うように見えます。
 
安息日を聖とするということは、何らかの世からの切り離しを命じていることにほかなりません。それは、人の生活においてのみならず、土地についても適用しているのが、このレビ記の面白いところです。人は七日というサイクルを以て、安息を得るとされています。土地は作物との兼ね合いなので、七年というサイクルを呈します。
 
七年目は「完全な安息」でなければならないそうです。それを「主の安息」と呼ぶのは、土地が完全だというからではなく、主が完全だということを言うのでしょう。畑を、何らかの形で休ませる。それは現代の農業でも考慮されている知恵です。化学肥料がその枠を超えるまでは、自然との接し方として人々は経験的にそれを知っていました。
 
このことに「主の安息」の背景を重ねたところが、ユダヤの知恵であり信仰でした。七年目は、人が手入れしていないままに実がなることもありうるでしょう。これを、土地の持ち主が益とするために利用することはできない、というのです。それらは奴隷、雇い人、滞在者、そして家畜を初めとする他の生き物たちの食べ物となるべきだからです。
 
骨子はここにあるのでしょう。人は、神から土地を与えられ、所有者となりました。イスラエルの民は、その権利を与えられたと同時に、その責任をもつようになりました。しかし、何らそのような権利などないはずの者たちに、否自分には権利などないと自覚する人々だけが、恵みを与えられる時がきます。主の救いの安息がもたらされる時です。


Takapan
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