不可解な土地売買
チア・シード
レビ記25:13-17
イエスの時代、モーセの律法に忠実に従おうとする、熱心な信仰者グループがありました。学者もいましたが、ファリサイ派の人々がいて、その後ユダヤ教を保持していく役割を歴史の中で果たします。新約聖書が、あまりに彼らを非難しているので、悪いイメージが染みこんでしまいましたが、酷く見下すようなことはしてはならないと思います。
ところでこのレビ記の記述の時代は、イスラエルの民は約束の地を目指して荒野を40年にわたり旅している最中のはずでした。このとき土地を所有していたというのは難しい理解です。土地の売買をしていた、という話もどうだろうかと疑います。土地を売って云々というのも奇妙だし、土地を売っても買い戻しの権利が発生するとは思えません。
確かに、定住したときには、それらの規定は十分役立つものとなります。互いに損失のないようにせよ、という法律は、よく考えられています。商行為の理想でしょうが、そう簡単に、互いに損のない取引が可能なのでしょうか。どうにも私には分からないことばかりです。もちろんそれは、私が商行為や法律に疎いからであるには違いありません。
法的にどうだとか、経済的にどうだとか言われても、私にはちんぷんかんぷんです。ここの規定は、ヨベルの年と関連があるようです。ヨベルの年を考えると、借金がチャラになることを見越して、取引に色をつけるようなことをするな、ということになるのでしょう。でもその計算をしないことは無理です。減価償却費でさえ計算に必ず入れるのですから。
同胞に一方的な損失を与えてよいとは思えませんが、こうした建前ばかりの規定は、必ずしも実態を説明してはいないのではないでしょうか。後のアハブ王のように、土地についてよこしまな取引をした権力者がいたかもしれないし、そもそも土地の安息という事実が本当に考慮に入れられた社会であったのかどうかさえ、怪しいものです。
イエスの時代、ファリサイ派の人々たちもそんなふうだったのでしょうか。イエス以降も、私たちは神を畏れています。が、仲間に損失を与える策略を練る経済活動をしています。他人は利用するためにあり、互いに益となるなどという関係は、建前に過ぎないのではないでしょうか。神の国という土地については、売買などできないというのに。