死者のよみがえりよりもむしろ

チア・シード

ルカ7:11-16   


ガリラヤ湖から南西の地、ガリラヤ地方の南の端に近いところに、ナインの町がありました。福音書は地名を大切に扱うことが多いものです。一つひとつのエピソードが、具体的な出来事に基づいていることを豊かに伝えます。弟子たちが共にいるのはもちろんですが、「大勢の群衆」も一緒にいます。町の門へと皆が近づいて行きました。
 
ということは、この群衆は、ナインの住人ではありません。ナザレからも遠くない地なので、預言者が敬われないとイエスが言ったその故郷も、一歩町の外に出れば、イエスを慕う人々はたくさんいたのでしょう。町は囲われ、門で閉じられていることがあります。昼は開かれていますが、「ある母親の一人息子が死んで、担ぎ出されるところ」でした。
 
この母親はやもめだといいますから、一人息子を亡くして、孤独となったと思われます。もちろん悲しいのは当然ですが、その後の生活そのものが成り立たなくなります。女一人で仕事をするということの難しい時代や環境でした。「町の人が大勢そばに付き添っていた」のは、儀礼的なものもあるでしょうが、この息子も人々に慕われていたのでしょう。
 
つまり、息子は人のために貢献していたと思われるのです。イエスは人々の様子から、背後のいろいろなことを推測し、見抜きます。ここでは「主」と記されており、母親を見ていたく「憐れに思い」声をかけたとされています。これは、よく話題にされる、腸がよじれるような感覚を伴う、心からの最大級の感情を表す言葉です。
 
しかも誰かから言われたということもなく、イエスはただ自らこの情景を見て、心が震えたようなのです。「もう泣かなくともよい」との言葉は、泣き崩れている人へのみ届けられます。私たちはどうでしょうか。そこまで泣くでしょうか。泣いたことがある人には、そのときイエスはきっと同じ声をかけてくださっていたのだと思います。
 
イエスが棺に触れると、棺を担いでいた人たちは立ち止まりました。細かい情景描写です。「起きなさい」は、時に復活を意味する語です。ただ体勢だけのことではなさそうです。母親の喜びをルカは描きません。周りの人々がイエスを「偉大な預言者」と捉え、神が「その民を顧みてくださった」と喜んだことの方に意味を見出して描いています。


Takapan
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