命じられていないのに
チア・シード
ルカ5:24-25
「あなたの罪は赦された」と「起きて歩け」、どちらが言うに易しいか。人間ならば、どちらか一つしか選べないでしょうが、イエスにとっては、どちらも易しいと思われます。体の麻痺した人に、起きて床を担ぎ家に帰れ、と言いました。その言葉は直ちに現実のものとなります。つまり、起きて歩け、が実現したのでした。
すでに、罪は赦された、とも言っていましたから、この時点でどちらも成立したことになります。地上で歩かせることで、罪を赦す権威をイエスがもっていることを思い返す教えることができる、というので、起きて歩くようにさせることの方が一般には易しいと見なされています。
もちろん、と言ってよいかどうか分かりませんが、イエスは言うばかりでなく、本当に患者を立ち上がらせることができました。それも、すぐさまでした。イエスは「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と命じます。患者はすべてそれに従いますが、ただ一つ、イエスの命令しなかったことをしました。お気づきでしたか。
それは「神を賛美し」た(聖書協会共同訳は「崇め」)たということでした。これに私たちはもっと注目してよいと思います。命じられてもいないのに、神を崇めています。思わずそうしたというのなら、罪を赦された喜びというよりは、萎えたはずの足が治ったということでしょうが、彼を運び吊り降ろした仲間と共に懐いた信仰の故とも理解したのでは。
イエスの宣言はみな真実でした。人々が驚嘆したのも尤もです。ただ歩いたからというのではなく、この事実を目撃したことで、恐れに満たされたことが確実です。これは驚くべきこと。神の業が現れた事態に遭遇した。驚き、賛美したのは「皆」です。かの律法学者やファリサイ派の人々も、その「皆」の中に含まれていたのでしょうか。
聖書は必ずしも全員でない時にも「皆」とか「すべて」とかいう語を平気で使います。だから、罪を赦す権威を疑った彼らは、単純に神を賛美したのではなかったかもしれません。しかしルカは、彼らが反抗したとか、イエスを狙ったとか、ここで記すことはありません。この記事の後もしばらく、イエスに疑問を投げかけつつ、悪辣な気配は見せていません。
私たちにも、このときと同じように、イエスの言葉が投げかけられているはずです。仲間が熱心だったのに、患者当人に「あなたの罪は赦された」と宣言しました。イエスの業が現れたとき、この人は「すぐさま」立ち上がり、神を崇めました。私たちも動けるでしょうか。すぐに賛美するでしょうか。そして、こんな仲間がいることに、気づくでしょうか。
