十字架を負い主に従う者
チア・シード
ルカ23:26-31
キレネ人シモンは、十字架を背負わされました。すごいことです。自分の十字架を負って主に従え、という言葉が頭に浮かびますが、自分の十字架どころか、イエスのための十字架を負ったのです。それは無理強いのようであったとしても、またイエスに付いて行かされたのであるにしても、人類唯一の経験をすることになったのです。
このシモンの名は、教会に語り伝えられていたのです。教会の有力なメンバーであったと推測する根拠もあるようです。マルコによる福音書が「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」(15:21)と説明しているからには、シモンの二人の息子は教会でよく知られた人物であると思われるからです。
シモンのほかに、群衆と女たちも、イエスに従って歩いていました。女たちは特に嘆き悲しみながら、従っていました。これもまたすごいことです。イエスのために涙を流しつつ、それでも従って歩いたのです。この後、どれほどのキリスト者が、このような体験をもつことができたでしょうか。比喩的にでなく、リアルに従った者は、もういないでしょう。
尊い涙でした。が、イエスは女たちの方を振り向いて、「泣くな」と言いました。心身共に疲労困憊の極みの中で、まだイエスは教えを説くのです。裁判の場でも、イエスはごく僅かしか発言していません。特にヘロデの前では、一言も言葉を発していません。十字架へと引き渡されたときですら、無言を通したようにルカは描いています。
しかし、イエスのために泣く女たちへ向けて、イエスは果ててしまいそうな状態の中で、声を挙げたのです。「私のために泣くな」と。むしろ、自分のために泣け。自分の子どもたちのために泣くべし、と諭します。これからどんな神の審きがくることになるか、人々は嘆くことでしょう。山の下敷きにでもなるほうがましだと思うことになるのです。
最後に「生木でさえこうされるなら、枯れ木は一体どうなることだろう」と言う言葉で締め括られていますが、謎の言葉です。これはエゼキエル20:47が参考になります。善良な人々にも災いがきます。でもそれは水分の多い緑の木です。ユダヤのエリートたちは潤いのない枯れ木です。彼らは、神の怒りをまともに受けて、もっと酷いことになるのです。