見えるようになる出来事
チア・シード
ルカ18:35-43
まず、共観福音書の中でのこの記事の違いを整理しておきます。この記事の直前、イエスは三度目の死の予告をします。そこで「十字架」という語を使っているのはマタイだけです。それからゼベダイの子らが、来るべき王国での地位についてイエスに願いを立てますが、マルコは弟子たちがその勘違いをする張本人であるのに対して、マタイは弟子を庇い、その母親の仕業としています。但し、ルカはこの記事がありません。
この流れの中でルカが盲人の記事を置くとき、目があっても見えていない弟子と、見えるようになるとはどういうことを教えたイエスとの対比がなくなり、残念です。母親の仕業にしたマタイも、この対比が薄らぎます。マルコのせっかくの記述を、二人はばらばらにしてしまいました。さらに、バルティマイという名を以て呼んだマルコの思いも消されてしまい、匿名のただの盲人一般にされてしまいました。
ルカは、この後にザアカイの記事を独自に入れてから、エルサレム入城を果たしました。エルサレムはルカの描くイエスがひたすら見つめていた目標です。すべての伝道旅行は、エルサレムに向けてのものでした。ザアカイの記事を挟むために、ルカだけが、この盲人の記事を、エルサレムに近づく時だと設定し直しています。他では、エルサレムから出てくる時でした。
さて、盲人ですが、イエスが通りかかったことを尋ね知ると、「ダビデの子」と叫びます。神への求めは、相手が誰であるかを知るところから始まります。神とはどういうお方であるかという認識なしに、闇雲に「神さま」と呼ぶのではないのです。イスラエルの王の子、そしてまたそこに恐らくはメシアという意識を含めてのことだったと思われます。ルカですから、救い主という、全世界へ響く理解を含めていたかもしれません。
盲人はその叫びを抑えられようとします。社会通念は、弱者の切なる叫びを抹消しようとします。バカなことを言うな。おまえのような奴が呼び求めるのは間違っている。お門違いだ。狂っているのか、黙っていろ。人間扱いしていないのです。しかしイエスの耳には、それは紛れもなく人間の声でした。イエスはこの叫ぶ声の持ち主を呼び寄せます。そして、問いかけます。何をしてほしいのか。あなたの叫びに対して、あなたを呼び寄せ、そして問いかけるのです。
憐れんでくださいという求めは、普通に考えれば、金でありましょう。つい先ほどは、筆頭弟子たちが、地位を求めていました。いったい人は、イエスに何を求めるものでしょうか。盲人は、金でもなく地位でもなく、ひたすら「見えること」を求めました。それは、人間相手には、絶対に求めることができないことでした。つまりこの盲人は、イエスを人間以上のお方だと信頼してこそ、このような求めができたのです。
人に対して求めたのではない。まさに神に求めた。この願いを端的に言い切った盲人に、イエスは驚いたかもしれません。また、見えるようになることを求めたということは、自分がいま見えていない、と自覚しているからこそです。かの弟子たちとの違いは歴然です。ルカがこれを省いたのはもったいないことでした。
イエスは直ちに、盲人を見えるようにしました。イエスをメシアと信頼し、自分は見えていないと自覚している時にすでに、ある意味で盲人はもう、見えていたのかもしれません。ただ、そうさせたのは紛れもなくイエスでした。この奇蹟は、いまもなお続いて起きています。世界中で、今日も何万人という人が、この出来事を経験しているのです。あなたもそのうちのひとりでありました。あるいは、そのひとりとなるよう、呼び寄せられ、問いかけられているのです。
