ルカのイエスは触らない
チア・シード
ルカ18:15-17
ルカ独自の印象的なたとえ話が並ぶ中で、マルコやマタイと共通している、子どもたちへの祝福や金持ちの議員のエピソードをつないでここに置きました。子どものように神の国を受け入れる者でなければ入ることはできないのだ、という、キリスト者ならよく耳にする言葉ですが、ここにはかなりルカという人の特徴がよく出ています。
マタイは、手を置いて祈ることを強調しました。律法や旧約聖書の記述からすると、その豊かなイメージが必要だったのでしょう。マルコやルカは、触れてもらう目的を記すに留まります。また、ここでルカだけが「乳飲み子」を持ち出しています。当然子どもはいるという前提と思われますが、わざわざ乳飲み子を強調するのは何故でしょうか。しかも乳飲み子は、呼び寄せられるものなのでしょうか。
マルコのイエスは、迷惑がった弟子たちにイエスは憤りを示しています。弟子たちに厳しいマルコならではのことでしょうが、マタイやルカはそのようには描きません。ただ乳飲み子たちを呼び寄せています。それから、子どもたちを来させなさいと言うのは、タイミングが悪いように見えます。このように言いながら、呼んだのなら分かります。日本語だけを見ると、情景描写がちぐはぐに思えてしまいます。
ところで、これら共観福音書が共通して記事として遺しているこのエピソードですが、新共同訳聖書は見出しに、子どもたちを「祝福する」とどれも掲げています。が、実はこれらのどこにも「祝福」という語は出てきません。「手を置く」ということが、祝福を意味するから、と説明されるかもしれません。が、ルカは実にそれすらありません。ルカの描くイエスは、子どもたちに手も置かず、祝福もしていないのです。
医者だと言われているルカですから、手当には科学的な眼差しをもっていたのか、と疑わせる事実がここにあります。ルカによる福音書を見渡したとき、驚くべきことに気づきました。癒しの記事が、マルコに比べると少ないという程度ならまだよいのですが、癒すときに、患者に触れたという記事が、3つしかありません。他は、イエスが口で癒しのことばを発するだけなのです。
ルカの描くイエスは、人に触りたくないようです。子どもたちへの祝福もリアルには描きません。子どもたちに触れません。すべて口先のことばなのです。それほどに、ことばによる作用を異邦人社会に強く響かせたいということなのでしょうか。ルカはあまりにたとえや短編小説のようなものが多すぎます。神においては、ことばに出すこととそれが現実存在になること、実現することは等値ですから、イエスを伝えるのに、ことばそのものを大切にしたかったということなのでしょうか。エピソードを描くために、マルコや資料からの記事をこれほどに切り詰める必要があったのでしょうか。福音書は実に多彩です。
