経済至上主義ではない

チア・シード

ルカ12:22-34   


「数万人もの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった」(12:1)という様は、想像が難しいものです。スタジアムでフェスをやっているような感じでしょうか。イエスは教えを次々と宣べています。群衆の一人が、急に遺産問題を相談してきます。よほど最前列辺りにあたのでしょうか。直接アーチストに声をかけるのは難儀だろうと思います。
 
イエスは、自分のために富を積むことの空しさを告げます。「だから」と口を開きました。鳥や花について詳しく例を挙げます。そして再び「だから」と言い始め、「何を食べようか、何を飲もうかとあくせくするな」と戒めます。それは「思い悩むな」という意味でした。先の質問の蓄えのことも含め、富や虚飾は「世の異邦人が切に求めているもの」です。
 
そう、世の者はあくせくし、思い悩みつつ、この世の財を求めています。そればかりが人生の目的となっているのです。何のために生きるのか。経済第一の人生しかありえないと思い込んでいるのです。この場合「経済」とは社会を助けるのではなく、ひたすら自分が得る金だけを意味しています。経済のために投票し、社会全体の運命は軽視します。
 
生命を保持するために必要なことを、父なる神が知らないとでも思っているのでしょう。イエスが現在の私たちを見てどう教えるのか、考えてみたいものです。「ただ神の国を求めなさい」とは、物を目的とせず、人の欲望だけを優先して人生を見限るな、ということではないでしょうか。マタイ伝のイエスも、山上の説教でそう語っていました。
 
ルカ伝の場合、ここに「小さな群れよ、恐れるな」という呼びかけが加わっています。教会共同体とも思えますが、キリスト者全体がまだまだ小さな集団であったことを想定しているようでもあります。神は「喜んで神の国をくださる」でありましょう。財を売ってしまい、宝を天に積め、というイエスの言葉から思い出すものがある人もいるでしょう。
 
使徒言行録にある、初代教会のあの助け合う姿のことを言っているような気がしませんか。天に積むもの、それは「尽きることのない宝」です。そしてその「宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と言っています。この「心」は、心臓を意味する言葉です。心臓と訳されることは新約聖書にはありませんが、本質という中心を示していると思います。


Takapan
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