いつまでもこのままであるはずがない
チア・シード
哀歌3:31-33
哀歌は、悲惨の限りを描きます。確かにそれは悲惨です。しかし、その隙間から、光が零れてくるのを感じることがあるかもしれません。今回は、そこに目を留めたいと願います。どん底のヨブのような現実がそこにありました。しかし主は、ずっとそのままいつまでも、そのような状態にさせておくはずがないではないか、と立ち上がるのです。
詩人は、拳を握りしめながら天を見上げているかのように想像してみます。確かに、神は私たちに苦しみを与えました。私たちに非がありました。だから文句は言えません。でも、その故に何もかもがうまく説明できるのでもありません。災難は否応なくやってきます。災害がただの神の仕打ちだと決めつけると、私たちは理解不能に陥ります。
私たちは、自らの責により災いを招くこともあれば、そうでないこともあります。災いとは言えない結果のものを、災いだと騒ぐことだってあるでしょう。そのとき私たちは苦しみ悩みますが、それは私たちの側の感覚であり思いであるだけなのかもしれません。但し、それを神の慈しみと解釈せよ、などと高みに立って説き明かそうとするのでもないのです。
ただ、そこに慈しみを見出す人がいてもよいわけです。そのことを証言したとしても、よいはずです。たとえおめでたい奴だと嘲笑されようと、ここに神の慈しみがある、と受け取ってはいけない、と禁じられるわけでもないのです。神は私を憐れんでくださった、と祈る人は、その祈りの中で神とつながっています。誰も否定することができません。
神は、単に人を苦しめ悩ませることを楽しんでいるのではないはずです。たとえ辱められているとしか思えない人間の見える景色であっても、別の角度からの見方というものがあるでしょう。神の本心はそうではない、きっと他に、と思えることが、神への信仰ということにもなるのです。神は私たちを拒みはしません。今そのようであっても、永遠には。