強く、強く、強くあれ
チア・シード
ヨシュア1:5-9
強く、雄々しくあれ。この訳は多くの聖書に共通しています。2018年発行の聖書協会共同訳でもそうです。今なおこの訳語しかないのでしょうか。「雄々しくあれ」の語感は「雄」です。この語自体は女性に対して適用もできはするでしょうが、反対語は「女々しい」です。この点について表立った声が挙がってこないのが不思議でなりません。
この短い箇所に三度も繰り返されるフレーズです。確かに、聖書の記述は当時の文化の中で刻まれた言葉であり、それは現代の価値基準で勝手に変更するのは適切ではありません。パウロ書簡の激しい書き方も、それはそれとしてぶつける必要はあるのです。しかし、ここは例えば英語ならcourageousやstrengtenと、男女性をにおわせない語で表せるのです。
さて、ここでこれだけ勇ましい励ましが与えられているということは、ヨシュアは実は弱気だったためだろう、という推測があります。一面あったのかもしれません。その師モーセでさえ、始めに主から呼びかけられたとき、口べただの何だのと、引きまくって抵抗したのでした。モーセはイスラエル人の中のリーダーとして登場できない立場にありました。
イスラエル人に信望のなかったモーセならそこで上に立つというのは突拍子もないことであり、さもありなんというところですが、ヨシュアは違います。これまでもモーセの従者として仕えてきました。その姿を周囲の者は見ています。誰もが彼を、モーセの後継者として認めていたと思われます。そのヨシュアにしてなお、これほど強くあれと繰り返されたのです。
律法を守ることを条件として、成功が約束されます。これを旧約的だと醒めた目で見ないようにしましょう。それ以上にここでは、神が「あなた」とヨシュアを呼び、しっかり向き合って語っているところに注目しましょう。民を導くのは「あなた」だ。主が「あなた」と共にいる。どこへ行っても、共にいる。ヨシュアもまた、その神に向き合っています。
ヨシュア自身がたとえ弱気でも、どのようであっても、主が共にいるという約束は、これ以上ない力強さを与えるはずです。行く先々で成功するというのは、約束の地を手に入れるということにほかなりませんが、同じ神から私たちは、神の国という約束の地を提示されているではありませんか。強く勇敢であれ、と励まされているではありませんか。
