新しい契約を告げよう
チア・シード
エレミヤ31:31-34
エレミヤは、ユダ王国の破滅を実体験しています。この世の終わりを見ています。旧くからイスラエルを守り導いてきた神と民との交わりと、その歴史がすべて崩れ去るのを目の当たりにしています。この特殊な、そして絶望的な状態をよく味わうべきです。もう何もかも信じられなくなるような情況に、エレミヤは置かれているのです。
しかしエレミヤ自身、なおも神と交わりをもっています。神の声を聞いていたのです。神の愛を感じていたのですし、それに魂を貫かれていました。時に神と対峙して、差し向かいで思いの丈をぶつけることもしましたし、神からのメッセージを裸同然の自分に備え携えて、荒ぶる人々に挑むように神から強いられることもありました。
エレミヤは「契約」に命を懸けていた、と言えます。ここに「契約」がある。確かにある。かつてのモーセの、あるいはヨシュアの示した契約に、さらに自分に与えられた契約が並ぶのを見たのです。あんなものではない。モーセとの契約を、民はもう破ってしまったではありませんか。でも「その日」、新たな契約がもたらされるのだと言います。
神の法は、人間の心の奥に刻みこまれることになります。表向きだけの立札のような者ではありません。人を心の底から支配し、変えるのです。他人事のようにして示された神を、「さあこれが神です」などと言い合うことも、もうなくなります。誰もが、その心で神を知るのです。神が心に入ってきます。人は、神のものとなります。
エレミヤの告げる「契約」とは、そのようなものなのです。本当の意味で、人は神のものとなる機会がここにあります。人は、神を知る、つまり全人格によって体験するのです。出会うのです。それは、人の罪を神が問題にしなくなる時がくる、ということです。人の思いも及ばぬレベルの赦しというものが、無償で与えられることなのです。