新しい契約の希望

チア・シード

エレミヤ31:27-30   


エレミヤは、バビロンへの連行を否みませんでした。おとなしくこの試練に耐えさえすれば、やがてまたこのユダの地に戻ってくることもできるから、ここは臥薪嘗胆、堪え難きを堪えておけば、やがて復帰できる、そのように訴えるわけですが、ばかなことを言うなと虐げられ、挙げ句エジプトへ逃れる集団に引きずり込まれることになったようです。
 
しかしエレミヤ自身は、バビロン軍の攻撃ですべてが終わりとは思わず、希望を有していた、という点を見ておきたいと思います。「その時」と預言者が口にするのは、しばしば主の審きの日を表すものですが、エレミヤが言う「その時」とは、バビロンからの帰還の時でした。そのために、ここに新しい契約が交わされるのだ、と宣言しています。
 
アブラハムとの契約、モーセへの十戒を通しての律法の授与、ダビデとの交わりも含めてよいでしょうが、神と人との間の取り交わしが、旧約聖書にはいくつか記されています。エレミヤは「新しい」と形容される契約を人々に告げました。エレミヤと神との間の契約というのではありません。生まれ変わるイスラエルと、そしてついには全人類との間に交わそうというのです。
 
人の種と動物の種という言い方は、子孫のことを述べようとしているのでしょうが、硬く狭められた環境に置かれたとしても、やがて芽を吹き、生育していく将来を描こうとしているのだと思われます。この仕打ちは、人間の手によるものではなく、主が、不信仰なイスラエルに向けてそのように仕向けたのだ、とするのがエレミヤの観点です。そして新生のイスラエルは、パウロが「神のイスラエル」と呼ぶ考えにもつなげて理解することが、私たちには許されるでしょう。
 
預言者としてエレミヤは、見張りの役を担っています。私たちもまた、見張りをしているかどうか問われます。慰めと希望の言葉を投げかけようとしているでしょうか。エレミヤはイスラエルの諺から、先祖の因果が子孫に及ぶという考え方は否まれるのだと宣言します。信仰が個人的なものへ移る契機となりますが、そこばかり強調することも感心しません。この契約は、イスラエルの家と結ぶ、とも言っているからです。
 
この望みは、共同体として、神の民となること、神に属する者となる望みです。兄弟どうし、互いに主を体験する間柄として、共に希望を有し、歩んでいくというのです。死は自分の罪によりますが、神の栄えは共に受けます。新しい契約が、イエス・キリストの救いによつて、具体的に現れるまで、エレミヤ自身は少しもやもやとした感情を抱きながらも、主が建て、植えることだけは心から消しはしないのです。私たちも「その時」の様子は明確にはイメージできなくても、こうした希望は握り締めていきたいものです。


Takapan
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