何が見えるか

チア・シード

エレミヤ1:11-12   


主の言葉は突然に来ます。エレミヤは、若く力のない者でしたが、主から声をかけられました。モーセも、語れと言われたときに戸惑い、断ることを繰り返していましたが、それはイスラエル民族へ告げることでした。エレミヤはそれに留まりません。諸国民の預言者としても選んだといきなり命じられたのですから、驚きも一入であったことでしょう。
 
主は、若さなどは関係ないとして、エレミヤを強引に立てます。そしてまず、主に問われます。「何が見えるか」と。主がひとに問いかけるとき、しばしば、あなたはどうなのか、問うてきます。どこにいるのか。何をしているのか。聖書の中では印象的なこうしたといかけがあり、それぞれ私に突き刺さってきたものでした。
 
いまエレミヤには、何が見えるか、と主は問います。それは実際に目に見えているものなのか、幻として映っているものに過ぎないのか、傍目には分かりません。エレミヤと主との間の関係の中での出来事です。エレミヤは直ちに応えています。「アーモンドの枝だ」と。主は、別の訳では「よく見たものだ」とそれを褒めているように見えます。
 
春の訪れを、何よりも先に知らせるのがアーモンドの花でした。事の先駈けを示し、神の予告を速やかに的確に伝え示すものとして、アーモンドはイスラエルと神との関係の中で重要視されていました。アロンの杖がアーモンドであったこと(民数記17:29)や、メノラーのデザインがアーモンドの花であったこと(出エジプト25:33-34)などです。
 
そうしてついに、同じ春に、イエスが死者からの復活の先駈けとして復活したことまでをも彷彿とさせる、そんなイメージをキリスト以降、聖書に出会う人は懐くようになりました。エレミヤにおいても、神はその言葉の実現のために見張っていると告げたわけですが、アーモンドは確かに目覚めの木としても受け取られていました。
 
ここに洒落が用いられています。ヘブル語で同じ子音で書く語が、別の母音で現れています。ひとつは「アーモンド(シャーケード)」、もうひとつは「見張っている(ショーケード)」です。エレミヤの視線の先にはアーモンドがありましたが、それは主が見ようとしていたものでもありました。いわばそれぞれの視線が、同じものに注がれていたことになります。
 
エレミヤは主と同じものを見ていました。この語はまた、寝ずの番を意味するようにも用いられることから、私たちは、目を覚ましていよというイエスの声とも重なって聴き取ることができます。目を覚ましていなさい、そして復活として目覚める。エレミヤの召命の場面で私たちは、福音の知らせに心を躍らせる恵みまで受けることができるのです。


Takapan
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