もしもエレミヤが
チア・シード
エレミヤ10:12-16
人が像を造ると、それは偶像となり、愚かとなるのに、神は万物を形造っています。造るという業は、神にしか認められないかのようにさえ見えます。エレミヤの指摘する創造のあり方は、今あるこの世界をどっしりと根拠にもっています。そけは、終わりの時、刑罰の時に滅びず、遺るものだと見なされています。世界は堅く据えられているのです。
この地は、しっかりとした力により造られているのです。気象についても、当時の理解があろうから、細かなことは言いませんが、雲から雨、稲妻から風、と変化する天候現象は、神の大いなる力を示すものとして、ここに及んでくるものです。ひとは、この力を前にして、然るべき知恵をも有していないのだということを、エレミヤは覚えています。
但し、ヤコブ、すなわちイスラエルの民は、主から恵みを受けることができます。空しく滅びるようなものではありません。主ご自身が、イスラエルの希望であり、イスラエルは、主の栄光を受けるのです。万物はこうして、与えられているのだと見ましょう。万物を形造る主がここにおられるのですから、それで十分だと考えましょう。
そしてイスラエルは、この神の名を戴く民です。――エレミヤの知る栄光はここまででした。しかし私たちは、救い主イエス・キリストの現れを知らされました。私たちは、さらなる証しを手にしています。もしもエレミヤが、キリストのことを知っていたら、何を言うでしょう。想像をしてみるのも、少しわくわくするような気がします。
神よ、そういうことだったのですか、と喜ぶでしょうか。どうして私にこれを見せて下さらなかったのか、と羨むでしょうか。それとも、自分の思っていたとおりのことを、神は実現して下さったのですね、と満足するでしょうか。いろいろな預言者の、このような「もしも」を考えてみるのは、必ずしも不信仰なことではないと思いたいのですが。