罪と罰の枠を外して

チア・シード

ヨブ7:17-21   


どうして、私を標的にしたのですか。どうかすると口に出てくるかもしれない、神への問いかけです。災いを見て、どうしてこんなことが起こるのだろう、と口にすることは確かにあります。それが空中にではなく、「あなたは」と人格的存在へ向かっています。「あなたが」私に心を向けました。だから私も、あなたに心を向ける、そういうわけです。
 
ここに、神信仰の基盤があります。情況はきついと思います。主の目はつねにこちらへ向けられています。手ぐすねを引いて狙いをつけるかのようです。私は絶えず見張られており、主から解放されることがありません。こうなると、安心などもってのほかでしょう。主の手にあって安らぐ、などというクリスチャンの信仰とはずいぶん違うものです。
 
しかしいま現にヨブは、理不尽な不幸のどん底にあります。自らが招いたこととは思えない災いの中にいます。このとき、主の手にあって安らぐ、などと言っていられるとすれば、よほどおめでたいことになりそうです。ヨブは、神に文句を言います。私が罪を犯したとしても、主に対して私のような者が、何をできるというのでしょうか、と。
 
主に損害を与えたり、主が少しでも痛いと思うようなことが私にできるとでもいうのでしょうか。何故私を標的にして、不幸を集中させるのか、分からないとヨブは言います。自分に罪があるからこそ災いに見舞われるのだ、などというありがちな解決をヨブは考えていなかったはずなのですが、ここでは、自分に罰でも当たったか、とでも過りましたか。
 
自分の背きや過ちの故だ、などとヨブは視線を逸らしているようにも見えてきます。だとすると、ヨブはいつか本当の意味で悔い改める必要があるでしょう。主が私を捜しても私はいない、というような諦めを、私たちは真似しないようにしましょう。むしろ主の方をしっかりと向いて、私はここにいる、と叫んでよいのではないでしょうか。


Takapan
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