友に対する一句に思いを巡らせて
チア・シード
ヨブ6:14
ヨブ記は困ります。今日の一節を聖書協会共同訳で挙げると「友への慈しみを拒む者は/全能者への畏れを捨てている」となっています。その「注」で、「拒む」はシリア語写本とウルガタに基づいて訳されたと説明されています。ヘブライ語写本では「溶ける」「しくじる」が適しているのだそうです。これだと日本語にならないように聞こえます。
友へ慈しみを与えない者が、よくないのでしょうか。友から慈しみを与えられようとするのを拒むのが、よくないのでしょうか。話の流れからしても、どちらもありうるような気がします。ヘブライ語写本によると、それがますます象徴的に表現されているようにも思えてきます。これが先の新共同訳では、どうだったのでしょうか。
「絶望している者にこそ友は忠実であるべきだ。さもないと全能者への畏敬を失わせることになる」、となっていました。絶望の中の友に対して、慈しみを示せ、という意味のように感じられます。これは助けを与える側の者への戒めだ、と理解できるのです。要するに、友を助けよ、との勧告だけがそこにあるようになるわけです。
聖書協会共同訳の「拒む」は、曖昧な訳語設定になっていたかもしれません。もちろんこの理解でヨブの嘆きを読み進めて然るべきです。つまり、ヨブの3人の共に対して、自分を責め立てるような真似はしないでくれ、と求めているのです。この呼びかける声を、私はどこで聞いているのでしょうか。助ける立場なのか、責められる方からなのか。
助けようとしているのが私でしょうか。責められて救いを求めて叫ぶのが私なのでしょうか。まさかイエスへ向けて、友よ、と冷たさを呪うかのように訴えることだけは、ないとは思うのですが。イエスはそのようなお方ではありません。全能者への畏れがあるからです。私はこうして、イエスがいかに慈しみ深く犠牲を払ったかを、改めて覚ります。