神の知恵は超えている
チア・シード
ヨブ28:23-28
ヨブの演説めいた語りの中には、味わうべき言葉も沢山あります。人の子は虫けらにすぎぬと短く言ったビルダドに対して、ヨブがまた長々と喋っています。やがて知恵たるものに焦点を移します。神の知恵とでも言うべきものであるでしょうが、しばしば人格的なものを想定し、擬人化してして示します。否、知恵そのものが人格的であったのです。
結局、真の知恵、知恵の源と呼べるところのものは、神でしかないでしょう。知るということの根源は、神にしかありません。というより、神のものであるものをこそ、知恵と呼んでいるのではないか、とも思います。神がこの世界の凡ゆる原因・根拠であるように見るべきなのです。事実、多くの哲学者や神学者は、古来そう考えてきました。
神は風に重さを与える。なかなか粋な表現です。風圧が強いということは、私たち感覚する側が使う言葉です。風を起こす方は、私たちではなく、神の側ということになります。水・風・雷と、その力を存分に現しているように描かれますが、そのすべては知恵のなす業である、と言い、神自身とは別の働きであるかのように表現されています。
神には義があり、愛があります。真実というように呼ぶこともできます。その高い視座から見ると、知恵は、主を畏れることへと集約されているようにも思えます。分別と呼び換えていますが、それもまた知恵のことではないでしょうか。主を畏れることと悪を離れることとは両立するばかりか、同一の事柄の二つの側面であるはずです。
ここからも、ヨブはしばらくまた言葉を続けます。こうした長広舌が、後に神の叱責を買うことになるのかもしれませんが、人間の持てる精一杯の知というものをヨブが代弁しているのであるに違いありません。これが人の知恵の届く精一杯のところなのです。その中で、神の知恵というものが、人の知恵を如何に超えているものかが示されています。