利己的な信仰
チア・シード
ヨハネ5:1-9
ヨハネ伝は、事の次第を非常に詳しく説明することがあります。それでも、初めの原稿では、5:3後半から5:4にかけての説明を欠いていたように見られています。確かに、その説明があってこそ5:7の病人の返答の意味が分かりやすくなります。そのベトザタの池の水が揺れたのは天使のせいであり、真っ先に水に入った者は癒やされるというのです。
そこの回廊には「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など」が集まっていました。本当に一番乗りした人が癒やされるのを誰かが見ていたのか、実情は分かりません。なかなか水か動かないので、誰もが諦めて帰っていたようにも考えられます。この「三十八年も病気で苦しんでいる人」は、どうなのでしょうか。
ここにずっと38年間いた、とは考えられません。また、突然来たイエスが、そのことを見抜くというのも、普通ならばありえないでしょう。ただ、イエスはその人が長患いであることは見て取りました。それで声をかけます。「良くなりたいか」と。常識的には愚問です。何のためにこの人がここへ来て横たわっているのか、一目瞭然ではありませんか。
だが、信仰とはそういうものです。どうせだめだと分かっているけどね、などと、叶えられなかったときの言い訳を、私たちは先に用意して心の安全を図っているではありませんか。この人の願いはそうではなく、真摯なものでした。ただ、どうしても水に入れない理由がありました。人の手を借りなければ、真っ先に池の中に入ることができないのです。
果たして、一番に水に入るというのは、競争です。われこそは他の誰をも押し退けて、一番に入るのだ。そうして自分一人だけが癒やされて帰るのだ……天使は神の使いですが、神の使わした天使が、そういう心理をよしとして癒やすものなのでしょうか。動けないこの人の目の前で、そうやって喜んで家路につく人が、本当にいたのでしょうか。
イエスは、「起きて、床を担いで歩きなさい」という一言で、この人を立ち上がらせます。言葉が人を立ち上がらせます。ただ、問題はこれが安息日だったことでした。この後、ユダヤ人たちがイエスを迫害し始めることになります。ならば、神の意志を運ぶ天使が、人を安息日に癒やすことすらも、彼らは認めたくなかったのでしょうか。