福音書が閉じられてゆく

チア・シード

ヨハネ21:1-14   


確かに「その後」です。ヨハネ伝は、20章で一つの結末を迎えています。復活の翌週8日目に、トマスの前にイエスが現れて、復活の確かな証拠を示しました。そして、その他にも多くのしるしがあったけれども、記されていないのだ、という断り書きを20章で結んでいたのでした。21章の「その後」は、いかにも付加されたようにも見えます。
 
ペトロとトマス、ナタナエル、ヤコブとヨハネ、さらに2人は名を伏せた形でそこにいたとされています。ティベリアス湖畔、かつて漁師をしていた何人かがいた所なのでしょう。イエスの弟子として1年だか3年だか旅の生活をしていたものが、今また元の職に戻っています。21章は一つの日の一連のエピソードとなっています。
 
できすぎているほどまとまっていますが、いずれもドラマチックで意義深いものです。漁に出る、とペトロがわざわざ口にしているからには、漁に戻る気がそもそもあったようには私には思えません。手慰みに出てみた思いつきであるかのように感じます。それではなかなか魚も捕れますまい。経験者でもブランクがあったわけです。
 
しかし、夜明けの岸辺に、1人の人がいました。網を下ろせば捕れる、と言います。これは、マタイやルカの記事を知る者が受け継いでいると推測できます。ペトロが気づきます。あれは主イエスだ。特にルカ5章にある、罪深い者とペトロが自覚したシーンが重なってきます。あの痛い思いが、このときのペトロに蘇って然るべきでしょう。
 
イエスが起こしたらしき炭火、それは裁判の時の炭火とは違います。遠くに離れたイエスを炎越しに見るのではないからです。イエス・キリストを象徴する魚をその日で調理して食すのです。夜が明けた故にそれは朝の食事。パンも分けられます。皆はイエスを食したことになります。命のパンなるイエスを告げたヨハネ伝がまとめられてゆきます。


Takapan
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