肉となった言が与える恵み
チア・シード
ヨハネ1:14-18
ヨハネ伝は、他の福音書とは別次元に立っています。そもそも福音書というジャンルが初めて登場したのがこの時期ですから、型破りなどという言葉は適切ではないのですが、マタイとルカがマルコに従ったのに対して、ヨハネはそれを突き崩します。「始めに言があった」は、もちろん旧約聖書の最初の創世記冒頭に対応しています。
「言は神であった」とのするその言が「肉となって、私たちの間に宿った」ことが証言されます。「私たちはその栄光を見た」のですが、その「私たち」とは誰のことでしょうか。ヨハネ個人に制限されるものではありません。ヨハネ教団とでも呼べばよいでしょうか、そうしたグループなのかもしれません。それとも、キリストの弟子すべてでしょうか。
当時の人間すべてを含みうることと見る読み方もあるでしょう。いまここで福音書を読んでいる私たち現代人も含まれるのでしょうか。それを強要はしませんが、そうでもよいと思います。「栄光」はドクサという語で示されましたが、人の思いなしの意味で用いたプラトンとはかけ離れています。神の輝きをそこに見たのは確かでしょう。
しかし、イエスの地上生活ほど、みすぼらしいこともなかったかと思います。どこにそんな輝きがあったと言えましょう。すでにイエスについては、洗礼者ヨハネが証言していました。ヨハネの価値が世で定まっていた前提で、このキリストこそそれに優る方である、と宣していることになります。イエスの紹介は、まずヨハネあってのものでした。
筆者のヨハネは、恵みに満ちたこのイエスを知ることで、恵みが限りなく降り注いできたことを示します。イエスがもたらしたのは、律法ではありませんでした。律法を守ったからこそ救われる、と考えるのとは、あまりに世界が違います。人は神を見ることはできませんが、イエス・キリストが神を示したのだ、とここでは理解されています。
これが筆者の証しでした。イエスとその血と水とを知る証人の証言です。それは、肉となった言の姿です。現代の私たちがこの方を、言葉によって知ることを考えてみるとよいのです。聖書という言葉から、信じるのです。今の私たちが、その言葉の命を受けて、この肉を有つ私たちが、神の命に生かされていくという恵みを、ここに強く覚えます。