イエスの最期

チア・シード

ヨハネ19:16-30   


受難日という教会暦の日に読むとなると、いっそう辛いものがあります。私がイエスをここまで追い込んだのだ、という意識の塊が、私を苦しめます。INRI(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)の文字が、精一杯の信仰告白となるでしょう。それはピラトが記させたものですが、そのまま私たちのところへ届けられたということになるのです。
 
ユダヤ人の指導者たちは、そんな称号を掲げるなと抗議しましたが、ピラトは聞き入れませんでした。ピラトは一つだけ、よいことをしたのかもしれません。兵士たちがイエスの着ていたものをくじで分け合ったことは、他の福音書にもありますが、ヨハネも取り入れました。それほどに、このことには大きな意味があったと見なされます。
 
ピラトが書いたままに視、兵士たちは聖書の言葉の通りに動きました。誰もが、神に突き動かされるように、盤上でコマを進めています。十字架の傍で見ている母の心境たるや、想像を絶するものがあります。よくぞ、とも思いますが、とても私には考えられません。マリアと名のつく女性たちが、一斉にイエスの死に様を見ているというのです。
 
母と子の絆を確かめるような不思議な会話があります。間には、イエスの愛した弟子を挟んでのことです。この会話空間に入ることができないままに、私はその周辺で戸惑っている状態です。後のマリア信仰のためにここは役立ったのでしょうか。それも知りません。十字架という、窒息状態でこんな会話ができるのかどうかさえ、分かりません。
 
ヨハネは、このようにして必要なことがみな成し遂げられたのだ、という判断をします。イエスは最後に「渇く」と口にしたといいます。詩編22編の言葉だそうです。兵士の行動についても、この22編からきていました。その詩編の冒頭は、「わが神、わが神/なぜ私をお見捨てになったのか」から始まります。それをヨハネは計算していたのでしょうか。
 
人々は、酢を与えねばと動きます。麻酔の意味があるのでしょうか。ヨハネのイエスは、これを受けたと記録しています。イエスはこうして、すべて「成し遂げられた」と認めたのでした。その霊を、父なる神に引き渡します。裏切りの意味の引き渡しとは違い、イエスは貴い霊を委ねます。私たちの祈りもまた、神に引き渡すべきものでしょう。


Takapan
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