ペテロの否認の寒々しさ
チア・シード
ヨハネ18:15-18
イエスの逮捕から裁判の場面を映し出すカメラがあるとします。画面は、捕らえられたイエスから、ペトロへと切り替わります。この後、この二人の間をカメラは往復することになります。いまペトロに留まったカメラは、その横にもう一人の弟子を映します。ペトロをその場に導いた立役者でした。ペトロがそこにいる経緯を説明します。
もう一人が大祭司の知り合いであったために、大祭司の中庭に入ることができたというのです。大祭司の知り合いなのに、イエスの弟子です。立場は危なくなかったのでしょうか。不思議です。伝説ではこの人物が、福音書の著者ヨハネだともされていますが、確かなことは分かりません。イエスに特に愛された弟子と同一人物ではないか、とも言われます。
とにかくペトロは、イエスの見える所にまで近づきました。いわば一味なのですから、近づこうとした勇気だけでも賞賛に値します。でも、やはり危険は迫っていました。門の内に入れなかったところを、もう一人の弟子が門番の女に口を利いて、ペトロを中に入れます。ペトロは怖ず怖ずと門を潜ったかもしれません。危険には違いないのですから。
「あなたも弟子ではないのか」と女はペトロに問います。「も」というからには、もう一人がイエスの弟子であることを女が知っていたことを意味します。ならば、ペトロの返答は、従来言われていたよりも重大なものとなります。「違う」と否んだのは、そのもう一人の方は弟子だが自分は違う、ということを表明したことになるのです。
これは寒々しいことではないでしょうか。いざあの犯罪人の仲間も捕まえよとの動きが始まったとしたら、もう一人の方はたちどころに連行されるでしょうが、ペトロはそこから逃げようとしていることになるからです。自分をイエスが見える場所に導いた仲間はどうなっても構わないが、自分だけは逃げおおせると踏んだことにならないでしょうか。
ペトロは非常に計算高く否認したことになります。あるいは、猪突猛進型として描かれているペトロのことですから、案外そんな計算もなく、直感的に危険を避けるために、ただ「違う」と言っただけなのかもしれません。しかし寒々しいものです。いくら気温が低かったにしても、ペトロを暖めるのは、このときには炭火しかなかったのでした。