教会は一つになっていない
チア・シード
ヨハネ17:20-26
イエスと父なる神との交わりは、特別なものです。父子で、しかも神としての交わりであり、人間の常識内では理解できない構造です。イエスが弟子たちあるいは信ずる民について、父に祈っています。イエスと父が一つであるのと比較して、すべての人がまた一つになるように、と願うのです。それは同時に、人々が神とイエスの内にいるということです。
これを見て、世はイエスと父とのつながりについて信じることになる、と言っています。YMCAの成立の祈りとして有名な17:21を掲げて、ヨハネは、その一つであることを示します。ヨハネの目の前にあった教会と社会の情況がここに反映されているような気がします。「世」は、私たちには「社会」と読んだほうが実感が湧くのではないでしょうか。
教会と社会。欧米ならまた独特でしょうが、日本では、一般にそれは別世界です。ならばよけいに、教会は一つであって然るべきではないかと思います。けれども、日本においてさえ、教会どうしが壁をつくり、分断され、それでいて互いに自分たちこそイエスの真の教会である、などと主張しているのなら、悲しく思います。
それが、神とイエスとが一つである、ということを否んでいるようにしか見えないからです。教会は、果たして神の栄光を見ているのでしょうか。神を知っていると言えるのでしょうか。神の名、つまり神の本質を知って体現しているなどとは、恥ずかしくて言えない気がします。ただ、そこを悲しんでいるだけではいけない、とも思います。
イエスは私たちに、神の名をかつて知らせたばかりではありません。これからも知らせる、そう言っています。神の愛はイエスに及び、その愛がイエスを通じて私たちの中へも及んでいます。このとき、イエスもまた私たちの内にいることになる、ヨハネによる福音書はそのように訴えるのです。この世には、そんなことがないというのに、教会にはある、と。