「つながる」と「とどまる」
チア・シード
ヨハネ15:1-10
「つながる」と「とどまる」。訳し分けられていると共に「直訳」として示されている箇所もあります。どうやら邦訳は、都合好く日本語を置いてしまっているように見えます。2節に「つながる」にあたる語はありません。4節以下の「つながる」も、7節以下の「とどまる」も、同じ語です。7節は同じ語が両方に訳し分けられてさえいます。
「とどまる」のニュアンスがつきまとっている故でしょうが、それを理解した上で、私はすべて「つながる」という日本語を用いることで、肌で感じたいと思いました。イエスという木につながる枝からは、豊かに実を結ぶもの。「つながる」とは、絆とも言えます。離れようにも離れられない、束縛としての「絆」です。が、それはむしろ自由を与えます。
ここに逆説があります。神の愛に縛られていることが、却って自由だというのです。イエスの言葉は、その人がキリストにつながっている以上は、その人につながっています。言葉が私たちの内につながっているのです。これを「コネクト」と受け止めるというよりも、日本語で「つながっている」という状態にあり続けることを示すことができると思います。
このとき私たちが望むものが、神の意に適うという奇蹟が起こります。人の目に奇蹟だということですが、神から見れば当然のことのようです。父がイエスを愛し、イエスが私を愛しています。この愛につながっていよ、あるいは、すでにつながっていると言います。戒めを守るならば、すでにつながっていることになる、とイエスは告げています。
こうして、つながっているということは、一つの忍耐として私たちに現れ、期待を懐きながらながら希望し、待ち望む心をも含みうるものとなるのでしょう。英訳では「abide」が使われていますが、英語ではそういう感覚で捉えたのだと思います。前向きな理解がそこから始まりますから、私たちは、イエスに従う勇気を与えられる気がしてくるのです。