道を巡る問い
チア・シード
ヨハネ14:1-14
人生は道によくたとえられます。けれども道は目的ではありません。どこかに通じ、どこかを目指して続いており、私たちを乗せてそこまで導く過程です。けれども、目的が同じであればどの道を通ろうと構わない、という考え方には賛同できません。結果が同じなら手段はどうでもよいのかどうか。鰯の頭も信心からという訳にはゆきません。
すべての道はローマに通ず、といいますが、どの道を選ぼうと行き着くところが同じであるというのは、聖書で示されている考え方ではありません。祝福の道と呪いの道とがあること、分かれ道がそこにあるという考えなら、聖書にしばしば見られます。イエスはここで、極めて限定的に、この道でなければ父の許に行くことができない、と断言しました。
イエスの後の時代にも、キリスト教という名称はありませんでした。それは「道」と呼ばれていました。すでに新約聖書の中にもそのような記述があります。日本には柔道や茶道、書道などのように、道を付けることでなんでもひとつの世界を表す文化があります。その類推で、道は一つのメタファーでありつつ、現実味を帯びて実感できるものだったことでしょう。
イエス自身が道なのです。人が願い求める真理も命も、この道によってでなければ与えられません。いや、幸福が欲しいというのが第一でしょうか。申命記には、命の道は幸いに至ると記されていました。道は何もストイックで苦行を要する過程というわけではないようです。この道はイエスの口から説明されるところの、父へ至る道だということ、それだけ。
父とイエスが一つであるとも言われていることから、ここに多面的な見方を提案してみましょう。私たちの認識の順として、まずイエス、それからそれを経て父と辿ってよいでしょう。他方存在の関係からすると、イエスと父は一つであってよいし、場面によっては別の相、あるいは位格で見ても多分よいわけです。
トマスとフィリポが名を刻まれてここに登場し、質問しています。疑いのトマスの精神なのか、見えない道に不安を抱くように「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と尋ねています。この質問がイエスに決定的な「わたしは道であり、真理であり、命である」を呼びました。疑問をぶつけることはよいことでした。無関心よりはよほどすばらしいことです。
フィリポは純朴に見え、素直にイエスに出会って感動し、人と人とをつなぐ役割を果たしていましたが、見えるところの奥に控えているものにまでは、なかなか気が回りません。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と訊くのです。仄めかすような説明だと満足しないのです。ただ、これもイエスの次の言葉、「わたしを見た者は、父を見たのだ」を初めとした長い教えを誘い出しました。問うことはよいことなのです。
