体を洗うことと足だけ洗うこと

チア・シード

ヨハネ13:1-11   


世にいるイエス自身の者たちを愛し抜いた。たんに弟子とは言わず、自分の者と呼びました。「この上なく」は「最後まで」「極みまで」などとも訳されています。これは目的をも表す語なので、私は、人格を目的として扱うべしという道徳哲学も視野に入れて捉えました。この地上で、イエスはひとをとことん大切に扱ったということです。
 
ここまで、各地で教え、癒し、また死んだ者すら起き上がらせてきました。他方、高ぶった者を糾弾もしましたが、それさえ愛することであったと見なしうるわけです。ファリサイ派の中にも親しい者がいくらもいたことは、福音書を注意深く読めば必ず分かります。たんにレッテルでひとを差別はしませんでした。その人を大切に取り扱ったのです。
 
ヨハネは、ディアボロスがユダの心に裏切る心を入れたように書いています。この後食事の席では、ユダの中にサタンが入ったと書いており、読者は混乱しますが、これを現代的に事実はどちらだと迫るような読み方をするよりは、何かしらユダが選ばれてしまい、イエスの十字架へ至る決定的な役割を担ったことを、自分の問題として読みたいと思います。
 
イエスは神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしています。その最後の機会に、奴隷としての姿をとりました。仕えるという模範を身を以て示したのです。弟子たちの、そして自分の者たちの足を洗い始めました。足を洗うという行為に様々な意味を読み取ることもできます。あまり教義的にならないように気をつけて読んでいきましょう。
 
ペトロの反応がこの場面のメインです。まずこの足を洗う行為に驚きますが、今に分かると言われると、そんなことはなさるなと引きます。そうしないと関係が断たれると言われたら、今度は体も全部洗ってほしいと慌てます。これに対してイエスは、体はもう洗われているではないか、全身清いではないか、だから足だけで今はよい、と返しました。
 
体を洗う・足を洗う、この二つの「洗う」は別の語が使われています。体のほうは、沐浴のように全体性を含んでいますが、足の方はその部分だけをごしごし洗うイメージがあります。もしこの背景に、罪の問題を重ねて考えるならば、前者は単数の罪、後者は複数の罪のように見受けられるのですが如何でしょうか。
 
つまり、体全体はすでに清い、あなたの罪はすでに根本的に赦されている。しかしあなたはまだ世において生きる限り、様々な失敗をなす。躓いたり、背きの思いを懐いたりするだろう。その都度のよくないことについても、また一種許されるという経験を重ねていかなければならない。外から帰る度に足を洗い、また互いに洗い合い、許し合うのだ、と。
 
罪なき者と見なされても、それだけでもう何をしてもよいのだ、と思い込んではいけないのです。日々磨かれていきたいものです。イエスが弟子たちに仕えるように足を洗ったことは、いまここでもなお、私たちの足を洗う姿をとって、イエスがそこで私に仕えてはいませんか。そのイエスの姿が見えますか。それに対して、どう応えますか。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります