死の先があることを告げたのに

チア・シード

ヨハネ11:1-16   


エルサレムで神殿奉献記念祭が行われました(10:22)。イエスは、ユダヤ人たちに石で打ち殺されそうになりました。イエスは「ヨルダンの向こう側」(10:40)へ行って滞在します。多くの人が来て、イエスを信じました(10:42)。そこへ、なじみの姉妹から使いが来ます。「兄弟ラザロが病気」だというのです。
 
このラザロのことを、使いは「あなたの愛しておられる者」と呼びました。弟子のヨハネもしきりにそのような呼ばれ方をしていました。イエスの反応は冷静で、冷淡にすら見えました。「この病気は死で終わるものではない」と言って、なおも2日間、そこから動く様子はありませんでした。ユダヤ人たちから命を狙われていたからでしょうか。
 
それとも癒やすべき人が他にそこにいたのでしょうか。事情は推測すらできません。イエスはこのとき、「神の栄光のためである」と付け加えています。「神の子がそれによって栄光を受けるのである」とも言っているのですが、この表現は後にイエスが十字架に架けられることをも示していますから、それを見越して言っているようにも見えます。
 
2日して、イエスがユダヤへ行くことを宣言します。弟子たちは身の危険を心配します。やはりユダヤ人の脅威があったのです。イエスの返答は、神秘的でした。「昼のうちに歩けば、つまずくことはない」との言葉は、「夜歩けば、つまずく」と対比的です。光あるうちに、光の中を歩もうとしているだけなのでしょうか。
 
ラザロは今静かに眠っています。「しかし、私は彼を起こしに行く」とのイエスの説明に対して、弟子たちは、それが死を示しているということに、まだ気づいていませんでした。それを覚り、イエスは「ラザロは死んだのだ」と明言します。そして「あなたがたが信じるようになるため」には、むしろこの方がよかった、というふうなことを言いました。
 
ラザロの病気、そして死。確かにそうなのですが、その先があることを仄めかします。その先を弟子たちが「信じるようになる」機会を、イエスがつくったような形です。しかしトマスには、死が最後のように思えました。復活の時もそうでした。トマスはそういう人なのです。そして、私たちもこのトマスと変わりがないのです。


Takapan
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