ウジヤ王からイザヤへ
チア・シード
イザヤ6:1-8
ウジヤは半世紀にわたり、ユダを治めた王でした。ユダヤはその間、繁栄しました。そのウジヤ王の死と共に、イザヤが動き始めます。主が呼び出したのです。ユダの経済は、これからどうなってゆくのだろう。人々は不安だったのではないでしょうか。イザヤ自身も、個人としては心許なかったのかもしれません。
ここで主が、イザヤという若者に、預言の霊を与えた意義は大きい。イザヤの目に玉座の主が映りました。衣の裾は聖所を満たし、その上にセラフィムがいました。神の使いの像だそうです。神のメッセンジャーたちの意味をもつようです。互いに呼び交わします。「聖なるかな」と三度、主の栄光を称えます。その声で、聖所の敷居が動きます。
神殿は、臨在の煙で満ちています。この聖なる光景にイザヤは戸惑います。主を見ることは、命を失うということだと人々は信じていました。但しそれよりも、この聖なるものに対して、自分が如何に汚れた者なのか、まずそこに災いを覚えているようです。私は汚れた唇の者。人間の唇はすべて汚れているが、主は聖い。イザヤはこの対比に苦しみます。
これはどう考えても、自分に耐えられることではありません。時代の不安に加え、個人的な身分不相応の出来事が起こり、イザヤの精神は破綻しそうになっていたのではないでしょうか。それは己れの唇の汚れによるものでした。私たちはそこまで、自分の唇の悪を自覚しているでしょうか。イザヤはまずそこに心が囚われてしまったのでした。
セラフィムの一人が、イザヤを慰めます。祭壇の炭火をイザヤの口に運び、過ちが取り去らせ、罪が覆われたことを告げます。この炭火が、私にはイエスのように見えてきました。ウジヤ王は自ら祭司のような真似をしたことから罰されたといいますが、その後、イザヤが祭司であり預言者であるような役目を負います。将来のイエスを暗示しながら。