危機の時代に神の声を聞いて
チア・シード
イザヤ6:1-13
イザヤが神から預言者として立てられたのは、ウジヤ王の死んだ年であったといいます。この召命ストーリーにおいて触れられない話題に触れます。ウジヤ王は、半世紀にわたりユダ王国を治めたようです。長期政権は歴史の中で2番目だそうです。和平に尽力し、国内の産業も発展したとあって、王として有能であったと思われます。
イザヤの前に、預言者アモスがいました。ウジヤ王の治世に地震があった、とアモス書に記されています。地震と一言触れるからには、それは震災と呼ぶべき大きなものであったと推測できます。王の治世中、国内は必ずしも平穏無事ではなかったのです。戦後の時代を長く過ごしてきた中で震災を知った私たちと、重なるものがあるかもしれません。
ユダ王国のバビロン捕囚は、まだこの後150年余を経てからのことですが、イスラエル王国のアッシリアによる滅亡は、このあと20年ほど後の出来事でした。切迫した空気が流れていたのではないでしょうか。イザヤはそのような時代に、神の言葉を告げるべく立てられた人物であったといえます。それは、イザヤ自身の意志によってではありませんでした。
預言する者は神が立て、神が用いるのです。神が立てたイザヤは、主から幻を与えられます。飛ぶセラフィムを目の当たりにし、命の危機すら覚えます。神を見ると死ぬと信じられていたからです。特にイザヤが気にしたのは、汚れた唇ということでした。目で見た現象への怯えよりも、自分の唇の方が気になっています。語る者としての召命感の故でした。
祭壇の炭火が、イザヤの唇を清めました。罪が覆われました。その炭火は、イエスの救いの後の世にも有効なのでしょうか。イエスは、聖霊と火とで洗礼を授ける、というように、マタイとルカの福音書の洗礼者ヨハネは告げました。そのことは、このイザヤが言う「炭火」というものになぞらえる目的で言われたのかもしれません。
イザヤは「遣わしてください」と願います。殊勝な望みです。その思いは何故与えられたのでしょう。きっと、主から幻を見せられたからです。時代の危機を見て、ただ不安になったり、逆に何の不安も感じずに根拠のない楽観の中で呑気に生きたりするのではなく、やがて来る危機を覚悟した中で、主から召し出されたたのだという意識があったのです。