差し向かいのイザヤ
チア・シード
イザヤ6:1-8
イザヤは、イスラエルの没落と希望を預言しました。そのイザヤが主から呼び立てられた時の描写がここにあります。B.C.740年頃と思われる、ユダ王国のウジヤ王の没年に、イザヤは神の声を聞いたと記録されています。天高く座す主を、イザヤは見たというのです。
裾の拡がる神殿というのは恐らく、神殿の外陣と称される広い範囲であり、セラフィムの声で揺れ動いたほうの神殿というのは、もっと一般的な主の家を表現する語でした。セラフィムというのは燃える炎のようなイメージの、おそらく天使的存在の呼称で、ここでは何かしら人のような姿をしていたかと思われます。互いに呼び交わす情景は幻想的ですが、イザヤはかなり詳しく描写しています。私たちはそれからすると異文化ですが、そんな私たちにも想像しやすいレベルで書かれてあるように思います。
セラフィムの歌には「聖なる」が三度繰り返されています。これは最大限の賛辞です。しばしばこれは三位一体の証拠であると言われますが、3の中に一種の完全性や神性を見ることはできるにしても、ここでそれを証ししていると言うのはやや言い過ぎの観があります。
イザヤは、神を見たということで死を意識しますが、それより先に、この「聖なる」現象を前にして、自分が唇の汚れた者であることを痛感し、滅びを覚悟しました。どうして唇だったのでしょう。汚れは、土埃の中を歩く足ではなかったのでしょうか。「聖なる」ものの前に、最も汚れているものとして、唇を意識したことが、イザヤの預言者たる証拠であったかもしれません。舌が制し難いことを知るのは、語る言葉に真摯に向き合っているからです。言葉を大切に思い人は、言葉の怖さを知っています。
セラフィムの歌はきよく響きました。イザヤは、それと同じようには賛美できなかったのでしょう。ためらうようなイザヤの前に、セラフィムのひとりが近づいてきて、明々とした炭火をイザヤの唇に触れさせます。罪ありと嘆き困惑するイザヤの唇を、炭火が焼きます。汚れたものは焼き尽くされます。このとき「罪は赦された」のでした。自分には罪がある、自分は罪だらけだ、そう悟る者が、燃える炭火で罪が焼かれる。あるいは、罪だと判断する理性をすら、焼き尽くしてしまうのでした。
最後は、もはやセラフィムではなく、主の声をイザヤは聞きます。遣わすべき者は誰か。誰がいるのか。そこにはイザヤしかいないのです。それは他人のことかしら、と嘯く暇さえないのです。私たちへの神の声はしばしばそのように臨みます。誰かいないか、と私ひとりを前にして、神は問いかけます。これが神の問いかけです。私は神と差し向かいの状態で、しかし強要されずに、神は私の自由な応答を待っているのです。私は神に奴隷にされているのではなく、私から神に従おうとするのです。「わたしがここにおります」と。
