イザヤの幻を受け継いで

チア・シード

イザヤ61:10-11   


イザヤ自身の狙いがどうであったかを調べる道もあることでしょう。しかし今日は、このメッセージが、いまここにいる私をどう助けてくれるのか、という点に絞って味わっていきたい。私は主を喜んでいるだろうか、と問いかけられているということです。私の魂が躍っているだろうか、と顧みるわけです。
 
心打ち砕かれた人が主の愛に包まれ、囚われた者が自由になったという宣言がなされました。かつての恥も辱めも、十分に濯がれ、報いを得ました。神は永遠の契約を結び、祝福を与えたのだ、と告げたのです。これだけのお膳立てがあってなお、主を喜べないということがあるのでしょうか。まずここで、己れの不信仰に気づかされます。
 
救いの心を私に着せるためには、主は大いなる犠牲を払いました。かつてそれを感じ涙した私だったはず。今もひしひしとそれを感じているのでしょうか。そう、私はキリストを着せられたのではありませんか。キリストは義をもたらしたといいますが、法的にもう罰されない状態に私を置いてくださったのでした。それが本当に分かっているのか。
 
キリストと教会の関係を、エフェソ書により婚姻の中に見たクリスチャンは、イザヤの表現にここで目を見張るでしょう。ここに花婿と花嫁が登場します。その飾りの美しさが、主に愛された私たちの姿であることを、本当に受け止めていると言えるでしょうか。見える目さえ有しているならば、それが見えるようになっているはずであるのに。
 
荒れ地と思われていたところも、実は種が芽生えるべき豊かさを含んでいました。地は緑に息吹きます。やがて花が開き、萌え出でる地は命に溢れます。これは主のなさることであり、主の戦いがもたらした平和です。勘違いをしてはいけません。人が主に代わって悪を成敗して得た世界ではありません。かつてイスラエルはそうやってカナンの地に殴り込みました。
 
私たちが範とするのは、そのような戦いではありません。人が自らの義を、聖書を根拠に聖書を利用して正義を独占した気分になる過ちを繰り返してはなりません。主なる神が主体であり、正義を創造し、人を含む自然の存在者から賛美を集めるのです。この楽園の回復は絵空事ではないと思います。イザヤはただの幻を見たのではないことを私たちが受け継ぎます。


Takapan
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