神の神たる道
チア・シード
イザヤ55:8-11
研究者たちにより、イザヤ書は大きく三つの部分に分かれているなどと言われています。それぞれ著者も時代も異なる文書が統合されている、と見ているのです。私はただ受け売りしているだけですが、ここは第二イザヤと呼ばれる部分の最終の辺りのようです。主がその思いの独自なることを宣言しています。人とは異なるというのです。
当たり前ではないか、と思われるかもしれません。しかし、私たちはいつしか自分の甲羅に似せて神を当てはめてしまいがちです。自分の意に適う神を想定して取り扱うのです。神を道具として利用したくなるわけです。預言者は神の言葉を代言する役どころと称されるのですが、神から、さあこれを言え、と命じられているとは限りません。
神を誤って見下している人間の姿に気づき、それをなんとかしようと暴くことを、預言者はしているのかもしれません。神はそんな方ではない。天は高いではないか。雨は地に潤いを与え、生命を生み出すではないか。神は人に対して圧倒的な存在ではないのか。神が人に、力ある言葉を投げかけます。命を与える言葉が天からもたらされます。
それによって神の意志を世界に実現するのです。これが人に喜びを与え、平和をもたらすという約束を、次に与えるのですが、神の道は人の道と全く離れたものだという点について、弁えておくべきことを根柢に置いておくことなしに、神との関係は成り立たないし、神の恵みの救いも分からないのです。これに気づかないでいてはなりません。
聖書の文化ではそもそも「宗教」などという概念はないでしょう。学として突き放してそれを見ることはできないし、生活の中から取りだして儀礼化することもできません。もしそれを聖書に見出したいなら、「道」というところでしょうか。日本人なら「道」の考えがよく分かるでしょう。人の歩く道は、目的地へ到るための道であるのです。