人はどこから来てどこへ行くのか

チア・シード

イザヤ46:3-4   


人はどこから来てどこへ行くのか。ふと問うてみたくなることはありませんか。どうかすると、気がかりな問題です。なんとか答えようと知恵の限りを尽くしてみても、万人に納得のいく唯一の答えが出るわけではありません。その部族や文化の中で、ある程度見解が定まっていたにしても、そこに留まらない考えがどこからかきっと出現します。
 
イザヤはどうだったでしょうか。母の胎を出たときから主に支えられて命が続いているではないか。イスラエルの人々にイザヤは懸命に呼びかけます。ダビデだったら、母の胎の中で自分を組み立ててくださったと告白するでしょう(詩編139:13)。これは、人はどこから来るのか、という問いに答えるものになっていると言えるかもしれません。
 
イザヤが言ったのは、個人としてではなく、イスラエル全体のことを考えて、母の胎の中を出たときから、と言ったようにも捉えられ得ます。この世界での息を吸って歩むことすべてが主の導きであり、主に支えられているということなのだと言います。その途上のあらゆる出来事は、いまは捨象されています。老いるまでそうだ、と結末だけを知らせます。
 
年老いて白髪になるまで、髪は人を背負い続けます。そして、あなたを造ったのもこの主であるわたしなのだ、と主は告げます。私が造った、私が担おう。あなたを造ったからには、あなたをとことん背負い続けるべきなのだ、そう主が自覚していることが明らかになります。そしてそのことを以て、イスラエル民族にどうだと迫ります。
 
主が救うのでなければならないということは、人間は、自分自身だけではもはやどうにもならない情況に陥っているということを意味するのでしょう。自力ではひとは何もできないに等しいのです。救いは、ひとの外から伸ばされる手によりのみ可能です。人は自分で自分を造ったのではありません。このスタートを神知れるだけで、まずはよいのです。


Takapan
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