偶像を運ぶ人間と人間を運ぶ神

チア・シード

イザヤ46:1-4   


バビロンの主神ベルは、人間が造った偶像です。旧約聖書続編にはダニエル書と題してベルと竜の話があります。ユダヤ人からすれば、ただこれで終わりです。生きてはたらき、歴史を担い導く神は、そんな偶像ではないのです。だからそうした神の像は、人のほうが担ぎ運ぶだけ。行幸などと言って神々を運搬して儀式を行います。
 
つまりは、人間の意志で神を動かし、意のままに利用しているということです。でも、それみろ、だからキリスト教がよいのだ、と豪語する気持ちにはさらさらなれません。クリスチャンを名のれば善玉なのだ、神の味方だよ、などとは少しも考えません。私が神とどう出会い、向き合い受け止めて、どういう関係にあるかが問題です。
 
そうした点を無視して、ベルやネボを軽蔑する真似はできません。偶像を運ぶ者たちが、囚われの身となってゆきます。思惑から外れたこの構造を感じ取ることができるためには、すでにそこから抜け出していないと難しい。その上でそこに主からの介入があります。「聞け」の一言は大きい意味があります。ここからすべての景色が一変します。
 
聞く者だけが、その変化を受けます。聞いた者は、変わることによって豊かになります。すでに神が担ってくださっていることに気づくので、人が神を担ぐようなことはありません。人が神の掌の上に載せられているだけです。人の生きる時間は、神の眼差しからすれば一瞬のようなものですが、その一瞬の中に神は腰を下ろして付き合ってくださいます。
 
まさに主が、私を背負います。重い十字架をもうすでに背負っていて下さったのです。ここへくるまでもそうしてきたのですから、これからも、ずっとそうなのです。そこに永遠があります。創造の神は救いの神でもあるのです。私たちはそこに気づいているでしょうか。知ってるよ、分かっているよ、と口にする者は、実は気づいていないのです。
 
深く広い神の計らいは、人には知り尽くしえません。担われている側の人間は、担っている神の覚える重みを経験しません。知らないのです。安心してそこに担われている、ただそれだけです。でもそこには信頼関係が成立しています。この信頼の絆を喜び一杯に受け止めつつ、真の自由を味わう道に、私たちは導かれているのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります