ほかにはいない
チア・シード
イザヤ45:2-7
私は主、ほかにはいない。この宣言は聖書で唯一であるそうです。これを、ペルシア王キュロスに差し向けて、主は告げました。異邦人へ主が現れる例となります。ユダヤ民族のために大きな力となった人物です。イザヤとユダヤ文化の人たちは、そのように称えます。「油を注がれた人」とまでキュロスのことを呼んでいます。絶賛です。
キュロスの前には、山も扉ももう何もありません。どんな宝をもキュロスの前に示そうと臨むのです。ここにいるのはイスラエルの神です。同時にそれは、これからは全世界の神となることの宣言でもあるのだと思われます。主がイスラエルを選び、導きましたが、これをキュロスは覚ることでしょう。否、キュロスはそれと知らず動かされるでしょうか。
主が与えるものは、暗闇に置かれた宝と、隠された財宝。しかし知ることのできないものです。キュロスを用いて世界史を変える、神の知恵だからです。この神が主であること、イスラエルの神であることを、キュロスは知るでしょう。主はキュロスに力を与え、特別な名をキュロスに名のらせようともしましたが、キュロスには分かりません。
この辺り、同じ日本聖書協会の聖書でも、いろいろ変化があります。口語訳は、主がキュロスの名を呼び、キュロスが知らなくても名を与えた、としています。新共同訳は、キュロスの名を呼び称号を与えたがキュロスは知らなかった、としました。新たな訳では、主が呼ぶ名を名のらせようとしたがキュロスは主であることが分からなかった、と言います。
かなり印象が変わります。次節でも、力を授けたがキュロスは主のことが分からなかった、というようにしています。キュロス自身は、神の道具として使われている名誉が分からない模様です。けれども世の人々は知っています。私は主、ほかにはいない。平和も災いも創造する主がここにいて、イスラエルの民を故郷に帰してくれるのです。