主を証しする者

チア・シード

イザヤ44:6-8   


イスラエルへ向けて神が告げます。それをイザヤが代弁します。熱心に、強く畳みかけます。祝福の言葉は、多くの困難を超えてきた民への報いなのでしょうか。そのためには、主なる神のアイデンティティをはっきり示しておかなくてはならないでしょう。主は「イスラエルの王」です。イスラエルのトップに君臨するお方です。
 
それは、イスラエルを支配する、ということでしょう。イスラエルを守る、ということでもあるでしょう。主は「イスラエルを贖う方」です。買い取ったのです。「万軍の主」です。闘う軍隊の長となると戦闘的ですが、勝利の信頼を有している、と見てよいでしょう。「初めであり、終わりである」とは、凡ゆるものの原理であり、目的であることです。
 
聖書の初めは創造でしたが、ヨハネ伝ではそれをロゴスと称しました。ロゴスはたとえば「理」のことです。そこからすべてが生じるところであり、原理なのです。また、黙示録に神のなす最後の目的、行き着くところが示されていました。旧約でも、主の日として目指されていました。万物の終わり、永遠の命、神の国の現れでもあります。
 
このような方のほかに、神たる存在があろうはずがありません。イザヤが度々戒めてきた、偶像への警告を、私たちはここに受け止めるべきです。主は、人の経験する歴史をすべてご存じです。それを、古からイスラエルに語り聞かせてきました。アブラハムやモーセを通して、また王や預言者を通して、すでに告げてきたことなのです。
 
一貫して与えてきた神の言葉は、イエスの口を通して、いまようやく完成へと進もうとしています。イスラエルの民が、すでに旧約の主の証人であるならば、イエスの救いが現れてそれを受けた私たちは、さらなる証人としてここに置かれています。他に神のないこと、立つべき堅い岩であることを証しするのは、いまや私たちなのです。


Takapan
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