新しいことを知れ
チア・シード
イザヤ43:16-20
私が主だ。あなたを創造し、導いた主である。私が神だ。だがイスラエルはこの私を呼ばなかった。このギャップに対して、主が自らのなしたことを示します。海の中に道を作りました。つまり、エジプトからイスラエルの民を連れ出したということです。頑なになり、イスラエルをなかなか解放しなかった王のエジプト軍は海の藻屑となりました。
それを容赦なく実行した主は、灯心の火を消すようになしたと言いますが、42:3では主の僕が「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心の火を消さず」と言っていたことを思うと、エジプトとイスラエルとの圧倒的な差を見せつけられるような思いがします。けれどもこれは、昔のことを思い出させるために持ち出されたのではないでしょう。
イザヤは、主の力を教えたかったのです。かつてのことにくよくよするな、苦しむな。そう言いたいのです。主はいま新しいことをしようとしています。正に起ころうとしています。出エジプトで築かれた道が、いま新たにここにも造られようとしている、それが分からないのか。海を分けた道は、脱出のため。自己愛と滅びの世から抜け出す道でした。
あの救いの業は、すべて主が備えたものでした。今度は、荒れ地に川が生まれます。確かに、世から救われたには違いありません。しかし、どこか空しさが走る。なにか違う。そうした思いがどうしてだか消えないようなことは、ないだろうか。そこへ主が告げます。その荒れた地は潤うだろう、主が生ける水の川をもたらすからだ。
その水を、私の民に飲ませる、と主は言います。主が選んだ者たちです。主の造った民です。主を崇める民なのです。その背きについても、もう気にしまい、と主は思い直すほどにまで、主は民と、ひいてはこの私を愛し、支え、導いてくださいます。そしてこの、さらに新しいことが、三度私たちの目の前で、もう起こっているのです。